彼は愛を口にしない第3話
この話は約2212字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
知佳が初めて美穂の名前を耳にしたのは、健太の母親、彼女の実母――佐藤紗英(さとう さえ)の口からだった。
留学していた三年間、健太の友人や家族は皆、その愛人の存在を知っていた。ただ一人、恋人である彼女だけが、何も知らなかったのだ。
最初、紗英も真実を告げようとはしなかった。
だが知佳が佐藤家を訪れる回数が増えるにつれ、紗英は彼女が長年行方不明だった自分の娘と酷く似ていることに気づいた。
どうしてもはっきりさせたくて、二人は親子鑑定を受けることになった。
結果を受け取った瞬間、紗英は怒りを抑えきれず、真実を打ち明けた。
彼女の目には、息子が浮気する事は許せても、娘が妥協する結婚だけは絶対に許せなかったのだ。
だが、知佳はどうしても健太の裏切りを信じられなかった。
異国で過ごした千日余りの間、彼は毎日欠かさず彼女に連絡をしていた。
初雪が降れば、「ずっと一緒にイラレっますように」と初雪に願ったことを嬉しそうに伝えてきた。
満月の夜には、わざわざ外国まで会いに来た。
高熱を我慢して、映画も一緒に観に行った。
こうやって二人は、手を取り合い一歩ずつ歩んできたのだ。
彼が裏切るはずがない!そう信じていた。
しかし、現実は容赦なく彼女を打ちのめした。
紗英に渡された住所を頼りに、ある部屋を訪ねた。すると、そこで健太が美穂の額に口づけをしていたのだ。
友人たちは茶化すように彼女を奥さんと呼び、彼は否定することなく、むしろ彼女を抱きしめ、貪るように口づけを続ける。
ようやく唇を離すと、こう釘を刺した。「知佳にはバレたくない。俺と彼女は婚姻届を書いたばかりだ。まだ提出していないから、正式に結婚したわけじゃない」
友人たちは笑いながらまくし立てる。「この業界で一番の愛妻家は健太くんだな」
「知佳さんは本当に幸せ者だ」
美穂は不満そうに、彼の耳たぶを噛む。「あなたは知佳を愛してるって言うけど、じゃあ私のことは?私のことも愛してるの?」
健太は彼女の腰を強くつねり、低い声で笑う。
「ベッドの上ではもちろん愛してるさ、ハニー」
その瞬間、知佳は堪えられなくなった。扉を開けて問いただそうかと思ったが、ふと目に入ったものに足を止めた。
美穂の手首に数珠のブレスレットが光っていた。
彼女の手にも全く同じものがある。
それは健太が、山で祈願してきたものだった。
「ほとけさんに誓った愛だから、俺たちは来世まで離れない」と彼は言った。
だが、その誓いは二つに分けられていたのだ。
一つは自分に、一つは愛人に。
その瞬間、知佳の中で何かが崩れ落ちた。扉から手を離し、魂が抜けたかのように車へ戻った。
飲み会が終わると、健太は美穂の腰を抱き、郊外の別荘へと消えていった。
同時に、彼女の携帯にメッセージが届く。
【知佳、会社で急な用事ができた。今夜は会社に泊まる。帰れない。】
携帯を握りしめると、心臓を誰かに鷲掴みにされたかのように痛んだ。息ができないほどに。
男は誰しも浮気をするのか。
あれほど自分を愛していたはずの彼さえも。
知佳は苦笑いを浮かべながら、手首の数珠を引きちぎり床に叩きつけた。
汚れた男なんて、もう要らない。
ちょうどそのとき、紗英から電話が入った。「早いうちに健太とあの女を切らせるわ。知佳、あなたは私の実の娘で、健太は養子よ。結婚すれば、会社を安心して任せられる」
知佳は唇を噛みしめ、ティッシュで涙を拭った。
「お母さん、私と彼は結婚しません。裏切りは絶対に許せません」
そう話し合ったあと、二人は戸籍の移転を密かに進めた。
知佳は思う。
健太のおかげで、自分は親を見つけることができた。
彼がプロポーズして、彼の家に連れて行ってくれなければ、自分の両親が佐藤グループの会長だと知らぬままだっただろう。
ならば彼の代わりに、自分が継げばいい。
我に返った知佳は、慌てふためく健太を見ながら再び問いかけた。「彼女は、誰?」
彼女は何も知らない婚約者を完璧に演じていた。
七日後、彼に驚きの戸籍謄本が届くその日まで。
そのとき、健太は初めて気づくだろう。自分たちはもう結婚できないことを。
彼は知佳を完全に失うのだ。
知佳の問いに健太の心は再び凍りつく。
ぎこちなく咳払いをして答えた。「……彼女は秘書だ。資料を取りに来ただけだ」
美穂は片方の口角をあげ、芝居じみた笑顔で手を差し出した。「北村さん、はじめまして。必要な資料を昨夜隣の書斎に置いてきてしまったみたいなんです。取ってきていただけませんか?」
知佳は断らなかった。
むしろ確かめたかったのだ。彼が、この家でどこまで愚かしい真似をするのか。
主寝室の設計は、彼女が何度も徹夜して図面を練り、ようやく仕上げたものだ。
結婚のその日を特別に彩るために整えた部屋だ。だが今となっては全て無駄に終わった。
いずれ時間を見つけて、不要なな飾りをすべて取り払おう。
そう思いながら部屋を出ると、背後で美穂の甘い声が響いた。「お兄さん、今夜は鞭も用意したの。絶対私にお仕置きしに来てね」
健太の低い声が答える。「ああ。俺の好きなあの制服を着て待っていろ」
知佳は耳を塞ぎ、逃げるように書斎へ向かう。
机の上には一冊の企画書しか置かれていない。
それを手に取り、戻るべきか迷ったそのとき、下に隠されていた書類に気づいた。
それは、この家の権利証だ。
名義は美穂。
それを見た瞬間、知佳は氷の底へ落ちていくような感覚に襲われる。
自分が一生懸命飾り付けた家は、彼の愛人を喜ばせていただけだったのだ。
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