彼のミューズ第3話
この話は約2313字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
私は最後にもう一度だけ直哉を信じてみようと決めた。
直哉が帰ってきたのは夜の十一時を過ぎてからだった。私はソファでうとうとしていた。最初に感じたのは、直哉の香りが染みついた上着が、そっと私に掛けられる感触だった。
少しだけ心がほどける。私は半分眠ったまま、思わず不満をこぼした。
「耳が治ってから、全然私を頼ってくれなくなっ……」
だが最後まで言い切ることはできなかった。
部屋の明かりはついていない。それでも窓から差し込む月明かりの下で、直哉の上着についた深紅の口紅の跡だけは、嫌になるほどはっきり見えた。
胸に刺さっていた棘が、一気に根を張ったような気がした。
美緒はわざと私に見せつけている。そして直哉もそれを許したのだ。
直哉は昔から女性が化粧をするのが好きではなかった。
以前、私の頬をつまみながら、嫌そうに言ったことがある。
「化粧したまま近づくなよ。匂いがきつい」
私は昔からおしゃれが好きだった。それでも直哉が嫌がるから、この三年間ずっとほとんど化粧をせず、香水さえ使わなかった。
なのに今、少し遅れて直哉の上着から女性物の香水の匂いが漂ってきた。もう平静ではいられなかった。気がつけば私は直哉の手を強くつかんでいた。
大きく息を吸う。心臓は激しく脈打ち、胸の奥が引き裂かれそうに痛かった。
「直哉。まだ私のことを愛してる?それとも……私ともう結婚するつもりはないの?」
直哉は答えなかった。その沈黙だけで、足元が崩れ落ちていくようだった。全身が冷たくなっていく。
もう駄目なんだ。そう思い、直哉をつかんでいた手から力が抜けていったその瞬間、直哉が私を強く抱きしめた。
一気に希望が戻ってくる。泣きそうになるほど嬉しかった。そうだ。三年間、毎日のように一緒にいたのだ。そんな関係が、たった一日で壊れるはずがない。
やがて直哉がゆっくり口を開いた。
「真帆、ごめん」
その言葉は、ずっと頭上に吊るされていた刃が、とうとう落ちてきたようだった。胸の真ん中を一刀両断された気がして痛かった。
私はゆっくりと腕を下ろした。
目の前にいる27歳の直哉を通り越して、その向こうに17歳の直哉が見えた気がした。青々とした並木道の中、17歳の直哉が、笑いながら私に手を振っているところだ。
「真帆。自分の身は自分でちゃんと守らなきゃだぞ」
17歳の夏の熱い風は、長い年月を漂った末に、とうとうどこかへ消えてしまった。
夢のようだった。夢が覚めたのなら、もう行かなくてはいけない。
直哉はまだ、私を宥めるように肩を軽く叩いていた。かつてはそれだけで安心できた手が、今は恐ろしいほど他人のものに感じられた。
「何があっても、真帆がしてくれたことは一生忘れない」
私は涙を拭い、どうにか感情を隠した。その言葉に思わず笑いそうになった。
何それ。まるで私が、これまで尽くしたことを盾にして、自分を愛せと迫っているみたいじゃない。
私は深く息を吸い、できるだけいつも通りの声で言った。
「忘れていいよ。もう愛してないなら、この三年間は取引だったってことにしよう。お父さんから株も十分もらったし。
婚約を解消したいならそれでもいい。その代わり慰謝料はちゃんと払って」
一言口にするたび、胸から血が流れていくように痛かった。それでもせめて最後くらいは惨めになりたくなかった。
直哉の表情が一変した。
「真帆……お前、俺の世話をしてたのは金のためだったのか?」
顔から一気に余裕が消える。私の腕をつかむ両手にも、無意識に力がこもっていた。
私は思いきり直哉を振りほどいた。
「離して。痛い!」
押し返された直哉は、一瞬、傷ついたような表情を浮かべた。呆然と私を見つめながら、小さく呟く。
「蓮に触られるのは平気だったじゃないか」
私は思わず聞き返した。
「直哉は今、どういう立場で私を抱きしめてるの?それにどういう立場で蓮に嫉妬してるの?今日、美緒を抱いて出ていったとき、私たちがまだ別れてもいなかったって、一度でも思い出した?」
美緒の名前を出した途端、直哉は我に返ったようだった。眉を寄せる。
「美緒はお前とは違う。あいつは弱いんだ。俺が守ってやらないと」
いつもそうだった。私にはあれほど深い愛情を見せ、あれほど私を必要としていたのに、美緒が絡んだ途端、まるで別人になる。
急にもう話す気さえなくなった。私はソファの背もたれに頭を預け、目を閉じた。
そして何となく、煙草に火をつける。直哉がまた眉をひそめた。
「真帆。俺、煙草の匂い嫌いだって言っただろ。それに香水も。今日、香水つけたのか?匂いきついから、これからは……」
私は鼻で笑った。淡々と言う。
「私じゃなくて美緒の香水だけど」
直哉は喉を塞がれたように言葉を失った。煙草の先だけが静かに燃えている。
長い沈黙のあと、直哉はようやく苦しそうに言った。
「……ごめん」
もう聞き飽きていた。
何の意味もない「ごめん」なんてもういらない。
青灰色の煙越しに、私は最後にもう一度だけ、十年近く愛し続けた男を見つめた。
それから煙草を灰皿に押しつけ、静かに言った。
「別れよう。もう直哉が何をしようと、私には関係ない。振込先は知ってるでしょ。婚約破棄の慰謝料はそこに入れておいて」
直哉は何も言わなかった。私が玄関のドアを開けたときになって、突然顔を上げる。声が不自然なほど震えていた。
「真帆。俺、今でもお前のこと愛してる。ただ……」
その先は聞かなくてもわかった。ただ、美緒を捨てられない。ただ、私は何があってもずっと同じ場所で待っていると思っている。全部わかっていた。
だから私はそれ以上聞かなかった。そのままドアを閉めて出ていった。
その言葉はあまりにも遅すぎた。もう私は同じ場所で直哉を待ったりしない。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)
第4話は公式アプリで
当サイトでの試し読みはここまでです。アプリをインストールし、下のアプリ用コードを入力すると、この作品の第4話からそのまま読み進められます。
S86082- 下のボタンから公式アプリをインストールします(無料)。
- アプリを開き、「コードを入力」にこのコードを入れると、この作品が本棚に入ります。
作品ページへ戻る 当サイトに掲載しているのは試し読みの章だけです。