彼のミューズ第1話
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藤井直哉(ふじい なおや)が両耳の聴力を失った途端、直哉が長年想い続けていた石川美緒(いしかわ みお)は、逃げるように海外へ渡った。
絶望のあまり荒れ果てていく直哉を見て、私はため息をつきながらも彼のそばに残ることを選んだ。
それから三年。
私は直哉の創作を支える存在となり、耳が聞こえない状態でも、直哉が人の心を震わせる曲を生み出せるよう、ずっと寄り添い続けた。
かつて直哉は、私をまっすぐ見つめて言った。
「君がいなくなったら、俺は生きていけない」
三年後、直哉の聴力は回復した。藤井家では、直哉の耳が再び聞こえるようになったことを盛大に祝い、それと同時に、私たちの結婚準備も進められていった。
周囲の誰もが喜びに沸く中、私だけは素直に笑えなかった。海外から戻ってきた美緒と直哉が手を取り合い、愛おしそうに見つめ合っている姿を目にしてしまったからだ。
そして結婚式当日、三年前にもらった一通の招待状を手に、私は海外へ向かう飛行機に乗り込んだ。
* * *
病院で、直哉の聴力が確実に回復しつつあると診断されたとき、私は自分のことのように嬉しかった。
慣れた手つきで手話を使い、おめでとうと伝える。
三年間ずっと沈んでいた直哉の顔に、初めて心からの笑みが浮かんだ。
「真帆、この三年間、本当にありがとう」
私は笑って首を振った。愛している人のためだ。これくらい苦労のうちに入らない。
いつもの癖で直哉の手を握ろうとしたが、伸ばした手は空を切った。
胸の奥にも、ぽっかりと穴が開いたような感覚が残る。
顔を上げると、直哉は何事もなかったかのような顔をしていた。
「真帆、みんな待ってる。早く行こう」
一瞬だけ戸惑ったものの、すぐにその感情を押し込め、私も穏やかに笑った。
「そうだね。行こうか」
私たちはもう大人だ。何かあったとしても、取り乱さずに振る舞うくらいはできる。
バッグの中には、少し前に直哉の父から渡された株式譲渡契約書が入っている。それもあってか、今は些細なことで気分が落ちるわけでもなかった。
病院を出るとき、直哉は私の支えを待っているかのように手を差し出しかけた。私はそれに気づかないふりをして、一足先に外へ出る。
きっと忘れているのだろう。この三年間、誰かの愛情や世話を必要としていたのは直哉であって、私ではない。
直哉が聴力を失ったばかりの頃、私は心配で仕方なかった。小さい頃から一緒に育ってきた幼なじみだったし、何より当時の私はずっと直哉に片想いしていた。
だから迷うことなく直哉と同じマンションへ引っ越した。直哉の隣の部屋で暮らし、必要とされればいつでもそばにいた。ドアの開け閉めのような些細なことまで、自然と私が手を貸すようになっていた。
直哉も途中で気づいたらしい。差し出しかけた手を気まずそうに引っ込めると、何も言わず私の後ろをついてきた。
パーティールームの扉を開けた瞬間、私は足を止めた。中はすでに大盛り上がりだった。
主役である直哉の到着など待ちきれなかったらしく、友人たちはとっくに乾杯を始めている。そしてその輪の中心にいたのは、つい先日海外から帰国したばかりの美緒だった。
なるほど。直哉が私の手を避けたのは、別に自尊心が傷ついたからではなかったらしい。
さっきまで私の後ろを歩いていた直哉は、美緒を見つけた途端、思わず一歩前へ出た。緊張したときの癖なのか、無意識に耳たぶへ触れながら、その視線は美緒だけを追っている。
慌てて前へ出たせいで、直哉は私にぶつかったことにすら気づかなかった。バランスを崩し、危うく転びそうになる。
そのとき、後ろから誰かがそっと私の体を支えてくれた。すぐに手を離し、何事もなかったようにグラスを一つ差し出してくる。
「真帆。だから前から言っただろ。あいつには情なんてないって」
振り返ると、そこに立っていたのは中村蓮(なかむら れん)だった。
私は差し出されたグラスを受け取り、軽く合わせる。
「仕方ないでしょ、蓮。私、直哉のことがどうしようもなく好きなんだから」
蓮は小さく笑った。私の隣に立つと、整った目元を細め、まっすぐこちらを見つめてくる。
「真帆って、本当にひどい女だな」
部屋の中央では、もうみんなが直哉と美緒を囲み、二人の再会を祝っていた。
私は少し離れたところから直哉の背中を見つめた。聴力を失っていた三年間、私がそばで支え続けたからか、直哉は以前よりもむしろ人を惹きつける雰囲気をまとっていた。
どこか儚げで憂いを帯びた若きピアニスト。その隣には、明るく華やかな雰囲気をまとった令嬢。こうして並んでいると、まるで恋愛小説の主人公同士のように、お似合いに見えた。
私は少しだけ顔を傾ける。ワインで濡れた唇を開き、わざとゆっくり尋ねた。
「私のどこがひどいの?」
蓮は身をかがめると私の手を取った。そして手の甲へ、軽く口づけを落とす。
「あいつには情がないけど、俺にはある。真帆、そろそろ俺のことも見てよ」
いつの間にか部屋が静まり返っていた。振り向いて初めて気づく。直哉をはじめ、その場にいた全員が、私と蓮のいる隅のほうを見つめていた。
直哉は何とも言えない表情でこちらを見ている。一歩こちらへ来ようとしたがその直後、美緒が遠慮がちに直哉の服の裾をつまんだ。
直哉の足がぴたりと止まる。それでも視線だけは、まるで縫いつけられたように私から離れなかった。やがて堪えきれなくなったように口を開く。
「真帆、お前たち、何して……」
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