届いた先は、私じゃない第3話
この話は約1777字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
直人は、すぐには答えなかった。
胸の奥に沈めていた恐怖が、私の声を思っていたより低くした。
「納得できる説明だけでいいの」
沈黙が部屋に広がり、息が詰まりそうになった頃、直人がようやく口を開いた。
「会社でちょっと厄介な案件があってさ。紗耶が一週間、残業してくれたおかげで片づいた。先週はあいつの誕生日だったのに、俺、何も用意してなくて……それで、あれを贈ったんだ。礼のつもり」
私は、その言葉をいったん受け入れた。
本当は、喉の奥に、まだ質問がいくつも詰まっている。
なんで匿名で?なんで私だけ見えない設定に?なんで、彼女の朝ごはんを食べるの……
それでも、お腹には子がいる。そして、完璧だと信じていたこの結婚を、私は手放したくなかった。
不格好に体をひねる。お腹が邪魔でも、意地で腕を回した。
「ねえ、直人。あなたを失いたくない」
彼は私の髪をやさしく撫でて、「ばかだな」と小さく笑った。
隣で彼の呼吸が次第に落ち着いていくのを感じながら、私はそっと起き上がり、彼に布団を掛け直す。
トイレにこもり、サブ垢で【紗耶の残夢】のアカウントを開いた。
【ときめきは、反射みたいなものだって。彼は何度も、私に思い知らせる。
卑怯だとわかってる。それでも、忙しい一日の終わりに彼が台所に立つ理由が、私だったら、どれほどよかっただろう】
涙が画面に落ち、甘ったるい言葉が滲んだ。
直人と私の結婚式の日を思い出す。紗耶は、私の唯一のブライズメイドだった。
指輪を手渡すとき、彼女は直人に身を寄せ、低い声で釘を刺した。
「汐里を泣かせたら、私が汐里をこっちに引っ張り込んで、あなたの隣から奪うからね!」
私はいつも、少し誇らしげに直人に言っていた。「私にはね、私のことが大好きな親友がいるの。あなたが私を大事にしなかったら、紗耶が許さないから!」
――それなのに今は、あの頃あたたかかった記憶が、回り回って棘になり、胸に突き刺さる。
明け方にようやく眠ったのに、直人が起きる気配に、私もつられて体を起こした。
寝不足で赤くなった私の目を見ると、直人は痛ましそうに、私の頬を軽くつまんだ。
「もう少し寝てろよ、汐里。この子、また暴れたのか。全然眠れてないだろ」
私は小さく首を振る。眠りたくない。どうせ夢の中でも、いいことなんて起きない。
今日は朝食をやけにたくさん作っていて、その理由を聞こうとした矢先、直人がキッチンから弁当箱を取り出した。
朝食を詰めるその手元を見た瞬間、昨夜、紗耶が上げていた投稿が頭をよぎる。
「会社に、弁当持っていくの?」
直人はほんの一瞬だけ動きを止め、すぐに何事もなかったような顔に戻った。「別に。たまには味を変えたくてさ」
私は笑って、それ以上は聞かなかった。
直人が家を出たあと、彼が会社に着く頃合いを見計らって、Xを開く。
――やっぱり、直人は更新していた。でも、写っている朝食は、紗耶が作ったもののままだ。
さらに【紗耶の残夢】のアカウントを開く。固定ポストが、ついさっき投稿されたものに変わっていた。
写真には、直人が自分で詰めた朝食。添えられていた言葉は、【夢が叶った】。
私はスマホを放り出すようにしてトイレへ駆け込み、さっき口に入れた朝食を、すっかり吐き出した。
便器にしがみついたまま泣き崩れ、まぶたは腫れ、こめかみが脈打つほどだった。
不意にアラームが鳴った。以前に入れておいたリマインダーだ。
あと二日で私の誕生日。直人と二人きりで過ごす誕生日は、たぶん、これが最後になる。
私はわざわざ予定を組み、この日だけは私のために空けてもらうつもりだった。
直人が帰ってくるなり、私は間を置かずにその話を切り出した。
彼が一瞬ためらうのを見て、胸が沈む。口元に貼りついていた笑みが、すっと消えた。
「……私と誕生日、過ごすの、嫌?」
「違う。嫌なわけないだろ」
私が不機嫌なのを察して、直人は慌てて言葉を重ねた。「たださ、最近の汐里、ちゃんと食べられてないし、眠れてもないだろ。だいぶ痩せたし、外でデートしたらしんどいんじゃないかって思って」
「じゃあ、家でデートしよう。あなたが一緒にいてくれるなら、それでいい」
直人は、当然のことみたいに頷いた。
私は待ちきれずにインスタに投稿し、私たちがデートすることを、みんなに知らせた。
紗耶が何も言わずに「いいね」を押しているのを見て、私は、自分がひどく醜いものに思えた。
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