婚約者が逃げたので、別の男に嫁いだ第3話
この話は約2773字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
耳をつんざく怒鳴り声に、私はスマホを少し耳から離した。
それでも慧は、途切れることなく私を責め続けた。
私がまったく動じないのを見ると、ついには脅すように言い放った。
「美咲、莉子に謝らないなら、俺は帰らないからな。莉子がお前を許すまで、絶対に戻らない」
そう言い捨てると、慧は一方的に通話を切った。
私が折れると確信しているのだ。
これまでと同じように、今回も。
私が何度も慧を許してきたのは、色のない私の人生に鮮やかな光を差し込んでくれた、あの頃の少年を愛していたからだった。
うんざりするほど退屈なピアノ曲を繰り返し練習していた私の前に、慧はベースをかき鳴らしながら、弾けるような情熱をまとって現れた。
彼は、自由そのもののように眩しく見えた。
それは、私がずっと焦がれながら、決して手に入れられなかったものだった。
「俺はずっと自由に生きてきた。だからお前にも、俺のそばでは自分らしくいてほしい。他人に望まれるお前じゃなく、本当のお前でいてほしいんだ」
少年だった慧は、自分なら私を幸せにできると信じていた。
けれど、彼はその約束を守らなかった。
そして私も、ようやく目が覚めた。
自由を手に入れたつもりでいたこの五年間、私はただ自分を押し殺し、傷つけ続けていただけだった。
もう、自分のために手放すべき時が来たのだ。
「式はまだ始まらないのか?」
「これ以上待たされるなら、もう帰るぞ」
「新郎が逃げたんだから、もう中止ってことでいいんじゃないのか?」
すでに30分が過ぎ、招待客たちは次第にざわつき始めていた。
直人は額の汗を拭いながら、慧に電話をかけた。
「慧、早く戻ってきてくれ。これ以上遅れたら、本当に笑いものになるぞ」
そのとき慧は車を運転していたらしく、声には焦りの色ひとつなかった。
「莉子が少し落ち込んでるんだ。海まで連れていって、気分転換させてやる」
すぐそばから、莉子の甘えるような声が聞こえてきた。
「慧くん、そんなこと言わないでよ。急に私を海へ連れてきたなんて、あとで美咲さんに知られたら、また怒られちゃうよ」
嫌な予感がしたのか、直人は人目を避けるように会場の隅へ移動しようとした。
だが、私はそれを見逃さなかった。
歩み寄ると、彼の手からスマホを奪い取った。
耳に飛び込んできたのは、慧の傲慢な声だった。
「美咲には待たせておけばいい。あいつは俺と結婚するために、親とまで縁を切ったんだぞ。どうせ俺なしじゃいられないんだから、少しくらい待たせたって何の問題もないだろ」
慧は、私をそんなふうに見ていたのか。
自嘲めいた笑みがこぼれ、いつの間にか涙が目の奥ににじんでいた。
もう慧を手放すと決めたはずなのに、本人の口からそう言われるのを聞くと、胸の奥が軋んだ。
直人は気まずそうに、私の手からスマホを取り戻した。
「美咲さん、怒らないでください。慧はただ、冗談を言っただけで……」
「私は、そういう冗談が嫌いなの」
私は目尻の涙を拭った。
「挙式を始めてください」
「え?」
直人は、何を言われたのか分からないという顔をした。
私は披露宴会場の隅へ視線を向けた。
五年前、家同士の取り決めで私の結婚相手になるはずだった橘雅臣(たちばな まさおみ)が、こちらに向かってグラスを掲げていた。
……
中断していた挙式の準備が、再び動き始めた。
それを見た直人は、慌てて慧に電話をかけた。
美咲がこれから別の男と結婚すると聞いても、慧はまるで信じなかった。
「美咲は役者でも雇って、偽の結婚式を見せつけて俺を怒らせようとしてるだけだ。そんなことをしたって、俺が戻ると思うなよ。挑発しても無駄だって伝えておけ」
直人はほかの新郎側の友人たちと顔を見合わせ、どうすべきか迷っている様子だった。
「慧、あれは芝居には見えないぞ。本当に止めなくていいのか?」
潮風に髪をなびかせる慧は、昔と変わらず自由気ままで、何ものにも縛られていないように見えた。
「放っておけ。好きなだけ騒がせておけばいい」
美咲がどれほど騒いだところで、本当に自分との結婚をやめるはずがない。
もともと用意していた指輪は、莉子が持ち出していた。
指輪もないのに、美咲がどうやって結婚するつもりなのか。
慧は、そう高をくくっていた。
五分後、直人から一本の動画が届いた。
映像には、指輪がゆっくりと美咲の薬指にはめられる瞬間が映っていた。
慧は鼻で笑った。
「ずいぶん念の入った芝居だな。あとでどんな顔をして、泣きながら戻ってきてくれって頼むのか楽しみだ」
慧はスマホを置き、再び莉子との海辺の時間を楽しみ始めた。
それでも、先ほどの動画に映っていた美咲の微笑みだけが、妙に胸に引っかかっていた。
正体の分からない不安が、じわじわと込み上げてきた。
「慧くん、まさか美咲さんが本当にほかの人と結婚したんじゃないかって、心配してるの?」
莉子は、慧の胸の内を見透かしたようだった。
慧は軽く手を振った。
「まさか。美咲は俺を愛してるんだ。あれは俺を怒らせるための芝居に決まってる。信じるか?俺が一本電話をかければ、あいつはすぐにあの男を追い返すさ」
慧は自信満々に電話をかけた。
美咲をどうなだめるかも、すでに考えていた。
自分が一言声をかけさえすれば、美咲はまたおとなしく待つはずだ。
彼はそう信じて疑わなかった。
だが、スマホから聞こえてきたのは、無機質な自動音声だけだった。
慧は眉をひそめた。
美咲が自分からの電話に出ないことなど、今まで一度もなかった。
とはいえ、怒るのも無理はない。
気が済めば、どうせまた自分と結婚するだろう。
慧は音声メッセージを送った。
「美咲、もう十分騒いだだろ。そろそろ気も済んだんじゃないか?今すぐあの男を追い返して、おとなしく待ってろ。すぐに戻るから」
返事はなかった。
代わりに、二枚の写真が送られてきた。
そこに写っていたのは、婚姻届受理証明書だった。
もう一枚は、披露宴の記念写真。美咲と、先ほどの動画に映っていた男の姿がはっきりと写っていた。
慧は、よくもここまで手の込んだ芝居をしたものだと鼻で笑いかけた。
だが、その後に送ったメッセージはいつまでたっても既読にならず、電話もつながらなかった。
美咲に連絡を遮断されたことなど、これまで一度もなかった。
慧は婚姻届受理証明書と二人の写真を何度も見直し、ようやくただ事ではないと気づいた。
慌てて婚姻届が提出された区役所へ向かった。
窓口で事情を尋ねると、知人の職員から、「正式に受理された」と知らされた。
慧はその場に立ち尽くした。すぐには現実を受け入れられなかった。
美咲が、ほかの男と結婚した。
自分を待つことなく、本当に別の男と夫婦になってしまったのだ。
慧はよろめくように車へ戻ると、狂ったような勢いで結婚式場へ向かった。
その間も、うわ言のように繰り返していた。
「あり得ない……俺を騙すために、芝居を本物に見せかけてるだけだ……」
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