委ねた痛みは刃に変わる第2話
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バーを出たときには、もう深夜を回っていた。
彰人は酒を飲んでいなかった。さっきからずっと、雪名とは距離を取って、あからさまにならないように振る舞っていた。
彼女はただ目を赤くしたまま、何も言わずに私たちの後ろをついてきた。
彰人が車を出してきたところで、彼は淡々と口を開いた。
「彼女、一人だし、この時間は危ない。送っていこう」
彰人は外出するとき、よくスポーツカーに乗る。座席は二つしかない。
私はいつものように助手席に乗った。すると彼は、降りろと言った。
「先にあの子を送って、そのあと迎えに来る」
彰人の表情はやわらかかったけれど、その声には逆らわせない響きがあった。
シートベルトにかけた手が止まり、私は顔を上げて彼を見た。
彰人自身は気づいていないけれど、彼はひどく芝居が下手だった。
他人のふりをしたいくせに、視線だけはいつも雪名へ向いている。
タクシーを呼ぶことだってできたし、友人に送らせることだってできた。
それなのに彰人は「心配だから」の一言で私を押しのけた。
彼は忘れていた。
女なのは雪名だけじゃない。暗い夜を怖いと思うのも、彼女一人じゃない。
私がほんの少しためらっただけで、彰人はもう眉をひそめていた。
「戻ったらお詫びにケーキ買ってあげるよ、いいだろ。君の好きなあの店の。彼女の家、あっちのほうなんだ。ちょうど途中だし」
彼はそっと私のそばに顔を寄せ、本当にケーキを買って帰るつもりでいるみたいに見せた。
でも彰人は忘れていた。数日前、私は生クリームでアレルギーを起こして熱まで出したばかりだった。
私は「うん」とだけ返し、彼の嘘を暴こうともせず、静かに車を降りた。
けれどあの夜、結局ケーキは来なかったし、彼も戻ってはこなかった。
街灯がともるのを見て、私はようやく、もうかなり遅い時間なのだと気づいた。
何時間も待ったのに、彰人は私のことを忘れていた。
私はそれ以上待つのをやめ、一人でタクシーを拾って家へ帰った。
ドアを開けると、彰人が一度帰ってきた形跡があった。
テーブルの上の救急箱はなくなっていて、引き出しの薬も何本か減っていた。
シャワーを浴びて着替えようとしたとき、私はふと動きを止めた。
クローゼットの扉が開いていて、中の服が一着なくなっていたからだ。
十八歳の誕生日に、彰人がくれたワンピースだった。
私がいちばん好きだった一着でもある。
それでも私は問いただしに行かず、静かに扉を閉めた。
書斎に入って、自嘲するように思った。
婚姻届受理証明書でさえ偽物だったんだ。
あの人にできないことなんて、もう何もないのかもしれない。
書斎の引き出しには鍵がかかっていて、普段の私は開けることもなかった。
彰人は、暗証番号は結婚した日だと言っていた。
けれど三度、1122と入れてみても開かなかった。
宙で指先を止めてしばらく迷い、最後に私は1123と打ち込んだ。
彰人がいつも私たちの記念日を間違える理由が、やっとわかった。
区別がついていなかったのだ。
鍵が開くと、中には一冊のノートが入っていた。
そこには、私の好みや癖がびっしりと記されていた。
小さいころ、彰人は毎日のように、私に関することを何でも書き留めていた。
実の親にまでからかわれても、彼はただ胸を叩いて言っていた。
「夏帆ちゃんは俺のお嫁さんだからな。ちゃんと俺が守らないと」
だから、どれだけ疲れていても眠くても、彼は日記を書き続けた。
私はページを一枚ずつめくり、幼い字が大人びていくのを見ていた。
鋭い紙の端で指先を切って、私はようやく手を止めた。
それは、彼が結婚式から逃げた二年目のことだった。彰人はもう、日記なんて書いていなかった。
その前までは、私を想っているように見せかけながら、実際には、その大半が雪名のことを書き綴る言葉で埋め尽くされていた。
後になればなるほど、その想いは深くなっていった。
その分、私について書かれる文字はどんどん少なくなっていった。
そして日記は、三年前、彼が戻ってくる一か月前のところで途切れていた。
【雪名が妊娠した。彼女には申し訳ないことをした】
【でも今の俺には雪名と子どもを養えない。家庭を背負うこともできない】
そのとき、私はようやく気づいた。彰人が戻ってきて結婚したのは、私を忘れられなかったからじゃない。
結婚すれば財産を継がせると、両親に約束されていたからだ。
彼の目的は金だった。
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