妻を男と間違えた夫。正体を明かして離婚する第3話
この話は約2519字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
明里がドアを開けると、食卓には明里の好物ばかりが並べられていた。
ソファではブランケットをかけた正人が眠り込んでいる。明里の気配に気づいたのか、正人は起きると、皿を持ってキッチンへ向かった。
「おかえり。料理は冷めてしまったから、温めてくるよ」
まるで、半年間の冷戦状態などなく、レストランで起きた裏切りも「政略結婚」の話もなかったことのようだった。
正人が忙しそうに動く背中を見つめながら、明里は指先をかすかに震わせた。
彼女はもうコスプレ姿を脱ぎ、元の自分の姿に戻っていた。正人は、何かを探るような深い目で、明里を見つめている。
温め直された料理が並ぶ。正人は明里の皿に煮込みハンバーグを一つ置いた。
「少し痩せたな」
たった一言。だが、それだけで、明里が必死に保っていた冷静さが針に刺されたように崩れていく。
前回の冷戦状態の時も、こうしたさりげない優しさで、正人は自分の反抗心を削いできた。
しかし今回は違う。まだ脳裏には、レストランで正人が穂花を庇っていた姿や、「政略結婚」だと言い放ったあの冷たい声が焼きついている。
明里は背筋を伸ばし、平静を装って言った。
「私たち合わないみたいだから、やっぱり離婚しよう」
ドンッ!
カトラリーが大理石のテーブルに激しく打ち付けられる音が響く。
正人の顔からは笑みが消え、その瞳に一瞬だけ狼狽の色が走った。しかし、正人は即座に取り繕う。
「ネットの記事を見たのか?穂花には、ただ経済的な支援をしてるだけに過ぎないし、あの子は世間知らずだろ?だから、騙されないか心配で、レストランまで様子を見に行っただけなんだよ。なのに、マスコミが勝手に話を面白おかしくしてさ。
俺たちの間には何もない。勘違いしないでくれ」
そう言いながら、正人はもう一つハンバーグを明里の皿に乗せた。「これ、お前が一番好きなやつだろ?昔は怒ってても、これを食べればすぐに機嫌を直してくれたじゃないか」
「明らかに浮気してるよね?」
明里は激高して皿を床に叩きつけた。「あれだけべたべたしておいて、私の前ではただ経済的な支援をしてるだけってよく言えたね?正人、どうしてこんなことができるの!?」
明里はてっきり、正人が言い返してくるか、あるいは怒り狂うかと思っていた。
しかし正人はただ拳を握りしめ、低い声で言っただけだった。「冷静になってから、また話そう。でも、離婚の話は二度とするな」
いつだってこうだ。
こっちが感情をぶつけても、何の反応も返ってこない。
何の感情も浮かべない正人の表情を見つめ、明里はひどく滑稽に感じた。
裏切ったのは正人なのに、この男は被害者ぶり、まるでおかしくなったのは明里だと言わんばかりだ。
その時、スマホが鳴った。
穂花からのラインだった。【かっちゃん、明日西区で展示会があるみたいなんだけど、行かない?】
明里は画面を見つめた後、ベランダでタバコを吸っている正人に目をやり、あえて柔らかい口調で話しかけた。
「明日、時間ある?浜江公園にでも行かない?」
ベランダの小さな光は小さく、正人の表情は見えない。聞こえてきたのは、小さく答える声だけ。
「ああ」
……
翌日。明里は中性的な服装にマスクという姿で、穂花と展示会へ向かった。
穂花は終始はしゃぎながら明里に画のことについて熱く語り、何度も横目で明里の様子を伺っていた。しかし、明里がずっとぼんやりしていたので、穂花は明里の腕を、揶揄うように肘で小突く。
「なんでそんな緊張してるの?もしかして、コスプレしていないから恥ずかしいとか?
でも、マスクしてるじゃん。大丈夫だよ、目元だけでもすごくイケメンだから!私は大好き!」
しかし、明里はやはり心ここにあらずという状態で、視線は入り口ばかりに向いていた。
朝から3時間も待っているが、正人からの連絡は一つもなく、代わりに穂花のこんな意味深な発言だけが耳に入ってくる。
「さっき正人さんから、どこにいるかって聞かれた。
私のこと、すごく心配してくれてるみたい」
展示会が終わりに近づいてきた頃、ようやく見慣れた姿が表れた。
正人が怒りで顔を歪めながら、こちらに向かってくる。
「お前ら二人で何してるんだ!」
正人は穂花を背中に引き寄せ、鋭い眼光で明里を睨みつけた。「言ったはずだよな?穂花に二度と近づくなって」
「ん?」
明里はわざとらしく穂花の手を取り、ボイスチェンジャー越しに嘲笑う。
「奥さんもいる清水社長が、こんなふうに暴力で片づけようとするんだ?それとも、また誰かに撮られるのが怖いのかな?」
「お、お前!」
正人の額に青筋が走り、目は怒りで血走っている。拳を固く握りしめているが、それ以上は何もできないようだ。
彼が感情を露わにする姿を見て、明里の胸に冷たい風が通り抜けた。
これまで、こうやって剥き出しの感情を向けられたことなど一度も無かった。
すると穂花が明里にすがりつき、わざとらしく袖をまくり上げた。そして、腕についた赤い跡を正人に見せつける。
「正人さん、もう会わないことにしよう。
正人さんの奥さんが私を訪ねてきたの。今度正人さんに連絡したら、次は足を折るって……
私はただ平穏に生きたいだけなの。命を狙われる生活なんて嫌」
堂々と嘘を吐き出す穂花の様子に、明里は心の中で笑うしかなかった。
しかし、顔を青ざめさせた正人が穂花の手を取る。「まさか穂花にこんなことをするなんて……穂花、大丈夫だよ。俺が必ず何とかするから」
そう言うと正人は踵を返し、足早に去っていった――おそらく「穂花に怪我をさせた奥さん」を探しに言ったのだろう。
正人が去った後も、穂花は明里の手を離さず、甘えてきた。
「ねえ、大丈夫って聞いてくれないの?イケメンはみんな気がつかえるのにさ」
「大丈夫?」
明里が小さく聞いた声からは、何の感情も読み取れない。
さらに、それが自分への問いかけなのか、穂花へ言ったものなのかは、明里にもわからなかった。
しかし、穂花は顔を赤らめて笑う。「かっちゃんが心配してくれたから、もう大丈夫」
……
ギャラリーを後にし、駐車場まで歩いてきた明里は、数人の黒服の男たちに取り囲まれた。
彼らは無言で明里の四肢を拘束し、一人がマスクを力任せに剥ぎ取り、凍るような声で命じた。
「一緒に来てください」
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