妻の座は親友に譲ります。復縁はお断り!第1話
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私、篠原寧音(しのはら ねね)が、夫の篠原智景(しのはら ともかげ)と結婚してから3年が経つ。
けれど不思議なことに、私たちが夫婦で出かける時には決まって、共通の友人である森園茜(もりぞの あかね)が、当たり前のような顔をしてついてきた。
そして、街の人々から「夫婦」だと勘違いされるのは、いつも夫と茜の方だった。
休日に買い物をすれば、店員は二人にカップル限定のサービスを勧め、お洒落なレストランでは、夫婦向けの記念日コースを案内される。
旅行先で「本当にお似合いのご夫婦ですね」と微笑む通行人からカメラを渡され、二人の記念写真を撮らされるのは、本当の妻である私の役目だった。
最初は私も戸惑い、傷ついた。
けれど、智景は決して誤解を解こうとはしない。
いつも茜が、「もう、私たちって雰囲気が似てるから勘違いされやすいのよ。寧音、気にしないでね?」と笑って場を収めるだけ。
その言葉を信じて、私は何度も自分の心に蓋をしてきた。
転機が訪れたのは、年に一度開かれる、篠原家の盛大な親族の集まりでのこと。
「今年こそ、正式に妻として一族に紹介する」
そう言ってくれた智景のために、私は3ヶ月前から作法を学び直し、必死に準備を重ねて義父母の待つ本邸へ向かった。
しかし、屋敷に着くなり、義母の貴子(たかこ)が満面の笑みで手を握ったのは私ではなく、またしてもついてきた茜だった。
「いらっしゃい!まあ、智景が今日正式に紹介したい相手って、やっぱり茜ちゃんのことだったのね!
昔から、見れば見るほどお似合いの二人だと思っていたのよ」
私が智景の本当の妻だとは夢にも思っていない親戚たちも、それに同調して場が盛り上がる。
「智景と茜ちゃんは、本当に長年連れ添った夫婦みたいだな」
広間に、どっと楽しげな笑い声が響き渡る。
私は一人、その場に立ち尽くし、すがるような思いで智景を見つめた。
せめて彼だけは、否定してくれると信じて。
だが彼は、否定するどころか、照れたように笑う茜の耳元にかかった髪を、愛おしそうに指で払い、耳にかけてやったのだ。
その瞬間、私の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。
ああ、やっとわかった。
彼は、面倒だから周囲の誤解を解かなかったわけじゃない。
彼の心の中で「本当の妻」であるべき女性は、最初から私ではなかったのだと。
――ならもう、私があなたの妻でいる必要、ありませんよね?
これは、愛を信じ、居場所を失った私が、偽りの夫婦ごっこを終わらせて新しい未来へと歩き出すまでの物語。
* * *
篠原家の本邸の豪奢なエントランスで、私は完全に空気と化していた。
義母は、茜の手をしっかりと握りしめ、まるで本物の娘を可愛がるように長々と褒めちぎっている。
ひとしきり盛り上がった後、彼女はふと、その後ろで静かに立ち尽くしている私にようやく視線を向けた。
「あら?そちらの方は?」
「あ、私は――」
私が名乗ろうと唇を開きかけた瞬間、智景が横からすっと手を伸ばし、私の持っていた手土産の紙袋をひったくるように奪い取った。
「ああ、こいつは茜の友人ですよ。今日は茜の荷物持ちとして手伝ってくれたんです」
――荷物持ち。
その短すぎる一言が、私の3年間という結婚生活を、いとも容易くゴミ箱へ蹴り落とした。
義母は私にはもう微塵も興味を示さず、嬉々として紙袋から豪奢な装丁の木箱を取り出した。
「まあ!これ、主人がずっと探していた幻の銘茶じゃないの!
それに、こっちは私が欲しがっていた血圧を安定させる特注のサプリメント……!
茜ちゃん、主人の好みや私の体調のことまで、こんなに気遣ってくれていたのね!」
それを聞いた茜は、一瞬だけきょとんとしたが、すぐにその美しい顔に柔らかな笑みを浮かべ、つつましく頷いた。
「ええ。お気になさらないでください。当然のことをしたまでですから」
胸の奥が、ギリッと音を立てて軋んだ。
その茶葉は、私が知人に頼み込み、遥か遠方の産地からようやく取り寄せた希少な品だ。
サプリメントだって、義母の体調を調べ上げ、1ヶ月も前から特別に手配して準備していたものだった。
結婚してからの3年間、智景は私を一度も両親に会わせようとはしなかった。
「篠原の家は格式を重んじる。君のような一般的な家柄では、親族がすぐには受け入れられない。俺が上手く立ち回るから、もう少し時間をくれないか」
その言葉をずっと信じていた。
いつか彼らに認められ、光の当たる場所で堂々と「お義父様、お義母様」と呼べる日が来る。
そう信じていたからこそ、会ったこともない義父・宗介(そうすけ)の好む茶の銘柄を覚え、義母の健康を誰よりも気遣い、見えないところで尽くし続けてきたのだ。
「本当に、この子は昔から気が利くのよねえ」
義母は愛おしそうに、茜の手をぽんぽんと撫でた。
その贈り物を、本当は誰が、どんな思いで用意したのか。
誰も問わない。
私がなぜ、こんな入り口にポツンと立ち尽くしているのか。
誰も関心を持たない。
……
広々としたダイニングルームに通されると、茜は当たり前のように智景の隣に腰を下ろした。
一方の私は、まるで部外者のように一番遠い下座へと追いやられていた。
前菜が運ばれてくる直前、智景は少しだけ席を立つと、私の腕を掴んで部屋の隅へと引き寄せた。
「……さっきの玄関でのこと、これがあなたの言う両親への挨拶なの?」
私が小声で問い詰めると、彼は悪びれる様子もなくため息をついた。
「前に母さんが、俺と茜のツーショット写真を見て彼女だと勘違いしちゃってさ。
母さんは心臓があまり良くないだろ?だから今日は、とりあえず話を合わせておいてくれないか」
「でも――」
「いいか?いくらここで茜を妻だと思わせたところで、俺たちがすでに籍を入れている事実に変わりはないんだ。少しの間だけ我慢してくれ」
私が反論する隙も与えず、彼はさっさと席へ戻り、茜のために優しく椅子を引いてやった。
食事が始まると、智景の目は茜に釘付けだった。
茜の皿から彼女の苦手な食材をごく自然に避け、メイン料理も彼女が食べやすいように、わざわざナイフで一口大に切り分けてから彼女の前に置き直してやる。
茜が「少し胃が痛いかも……」と呟いただけで、彼は即座にスープの温度を確かめ、使用人に胃薬と温かい白湯を持たせた。
「だから、胃の調子が悪い時は冷たいものを飲むなと言っただろう?」
口調こそ咎めるようだったが、その手つきも眼差しも、甘やかでとろけるように優しかった。
――結婚2年目のことだ。
私が39度の高熱を出し、ベッドの中で彼のシャツの裾を握りしめて「病院に連れて行ってほしい」と懇願した日があった。
だが彼は、ベッドサイドに解熱剤の箱をポンと置いただけだった。
「今日はどうしても外せない重要な会議があるんだ。とりあえずその薬を飲んで、自分でなんとかしてくれ」
そう言い残して去った彼。結局、意識が混濁した私を見かねて救急車を呼んでくれたのは、隣に住む住人だった。
けれど、恋人だった頃の智景は違った。
雨の日に私が足を捻挫した時、彼は高級なスーツが濡れるのも構わず、私をおぶって2キロもの道のりを歩いてくれたのだ。
病院に着く頃にはずぶ濡れだったのに、しゃがみ込んで私の足を優しく撫でながら、こう言ってくれた。
「俺がいるんだから、もう一人で無理して強がらなくていいんだよ」
……ああ、そうか。
今、彼が心から大切に想い、守りたいと願う相手は、もう私ではないのだ。
食後、満ち足りた空気の中で、義母がベルベットの小箱を取り出した。
「茜ちゃん。これはね、篠原家の正妻に代々受け継がれてきた指輪なのよ」
義母は満面の笑みで、そのアンティークの指輪を茜の薬指にはめた。
茜は頬を赤らめ、「こんな大切なもの……!」と遠慮がちに外そうとする。
しかし智景は、そんな彼女の細い手をそっと包み込むように押さえた。
「いいんだ。母さんが喜ぶから、今日は着けたままにしておいてよ」
そのやり取りは、誰がどう見ても本物の家族だった。
智景の言葉に、茜がはにかみながら「お義母様」と微笑みかける姿は、あまりにも自然で。
私はふと視線を落とし、自分の空っぽの指先を見つめた。
「両親に認めてもらえたら、その時は俺の手で、篠原家に伝わるあの指輪を君に贈るから」
入籍したあの日、彼が私に誓った甘い約束。
その言葉だけを信じて待ち続けた3年間は、一体何だったのだろう。
それだけでは終わらず、義母はさらに分厚いアルバムを持ち出し、茜がどれほど篠原家と親密な関係を築いているかを私に見せつけてきた。
ページをめくると、お盆の墓参りや義父の誕生日祝いなど、家族の重要行事には必ず茜の姿がある。
そして、一枚の家族写真。
茜が智景の腕に親しげに絡みつき、義父と義母の間に立って微笑んでいる。
写真の日付は、去年の大晦日だった。
――あの日、智景は「急な海外出張が入った」と言って家を出た。
私は彼が帰ってくるかもしれないと、一人で二人分の年越し蕎麦を用意し、大晦日の夜から元日の朝までずっと待ち続けていたのだ。
年が明けた瞬間に送った【あけましておめでとう】のメッセージ。
彼から【ああ】という素っ気ない返信が来たのは、それから6時間も経った後だった。
アルバムを閉じた義母が、思い出したように私の両親の職業を尋ねてきた。
「両親は早くに他界し、祖母に育てられました」
そう答えた途端、彼女の顔からスーッと笑顔が消えた。
「……なるほど。そういうことね」
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