夫の百人目の愛人が現れた日、私は彼を捨てた第3話
この話は約2780字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
別荘に戻った時、主寝室からは愛欲にまみれた声が漏れていた。
女の甘い笑いと、匠馬の荒い吐息が入り混じり、時折低い唸りや哀願めいた声さえ響いていた。
私はまっすぐ二階へ上がり、用意しておいたパスポートと銀行カードを寝室の隠し場所から取り出し、清潔な服に着替えた。
鞄を提げて階段を下りると、ちょうど匠馬が琴音を抱き寄せながら主寝室から出てきたところだった。
「まあ、紗希姉さん、帰ってらしたの?」琴音はわざとらしく目を丸くする。「どうして帰ったばかりなのに、もう出て行くんです?」
匠馬は私の荷物を一瞥し、険しい目を細めた。
「どこへ行く?」
「ここを出るの」私は視線も向けず、玄関へと歩みを進める。
「待て!」匠馬が腕を掴んだ。「お前の母さん……」
「死んだわ」私は静かに遮った。「昨夜、私を閉じ込めている間に息を引き取った」
琴音は甲高い声で嘲笑した。
「やだ!芝居にもほどがあるわ、お母さんを呪うなんて!」
匠馬の瞳には陰険な光が宿り、低く唸った。
「紗希、お前……」
「どいて」私は彼の手を振り払った。
「まあまあ、清水さん、そんなに怒らないで」
琴音は私の前に歩み出て、薄笑いを浮かべながら愉快そうに言った。
「紗希姉さん、お母さん死んだのならむしろ解放じゃない?清水さんの血を吸って生きてきた人が、下品な手を使って男のベッドに潜り込む娘を育てたんだから、死んで当然でしょ!」
「黙れ!」
私は鋭く顔を向けた。その視線は刃のように琴音を突き刺す。
「あんたに母のことを語る資格はない!」
「なんでよ!」
琴音は声を張り上げ、指先を私の鼻先まで突き付ける。
「自分の娘を男に差し出すために薬を盛るような下衆女の産んだ子なんて、男を騙して金を絞り取るしか能のない小汚い……」
パァン!
乾いた音が部屋に響いた。琴音は頬を押さえ、目を剥いた。その驚きはすぐに歪んだ怨嗟へと変わる。
「きゃああ!紗希、あんた……私を殴った!?この下種女が!」
私は身をひねって強く振り払った。
「きゃっ!」
大きくよろめいた琴音は、脚をひねって脇にあった黒檀の立派な棚へと倒れ込んだ。
ビリッ!
細い腕が角に深く裂かれ、たちまち皮膚が裂けて鮮血が勢いよく噴き出した。赤い飛沫は絨毯と壁紙を容赦なく汚す。
「助けて!痛い!腕が……!」
琴音は床に崩れ、傷口を押さえながら弱々しく叫んだ。
「紗希!」
匠馬はすぐに彼女を守るように立ち、怒りの視線を私に投げつけた。
「自分の汚い行いを指摘されて逆上したのか!」
私は冷ややかに言い放つ。
「私は押していない」
だが匠馬は聞く耳を持たず、理性は怒りに呑み尽くされていた。駆けつけた執事や使用人たちに向かって咆哮する。
「彼女の部屋の物を全部焼き払え!出て行きたいなら勝手にしろ。ただし清水家の物は一つたりとも持ち出すことは許さん!」
最後の一枚まで写真が炎に呑まれるのを見届けながら、私は心の中に溢れる解放感を噛みしめた。
十年の青春――焼き尽くして灰に還ったのだ。
「謝れ!」
匠馬は私の顎を掴んだが、私の視線を見て一瞬動きを止める。
パシッ!
私は迷わずその手を払い、背を向けて扉へと歩み出した。背後から怒声が飛ぶ。
「紗希!出て行くなら二度と帰ってくるな!」
私は握った航空券を強く握り締め、振り返ることはなかった。
――三日後。
匠馬は厚いギプスを巻かれた琴音を伴い病院から戻った。だが屋敷はいつもと違う気配を漂わせていた。
普段なら、どんなに遅く帰ってもすぐにキッチンに明かりが灯り、温かい酔い覚ましの茶が差し出される。
だが今は異様な静けさ。顔を出した使用人たちもすぐに隠れてしまった。
「清水さぁん~ちょっと休んで。疲れたでしょ?私がマッサージしてあげるから……」
琴音が甘ったるい声を出したところを、匠馬は苛立たしげに遮った。
「柳じい!紗希はどうした!すぐ連れてこい!」
柳じいは早足で現れ、落ち着いた声で答える。
「清水さん、奥様はもう家におりません」
「……いない?」
匠馬の眉間に険しい皺が刻まれた。
「逃げたってのか?電話しろ!すぐに戻させろ!」
「繋がりません」
柳じいの声はさらに低くなる。
「奥様の携帯は……二日前、出て行く際に寝室の机に置いていかれました。それから……署名済みの離婚届も」
匠馬の瞳が濁った暗い光を帯び、一気に階段を駆け上がった。扉を蹴破って入った寝室はがらんとしており、机の上に取り残されたのは古い携帯と署名のある離婚届。筆跡は紛れもなく「紗希」だった。
「ふん……大した度胸だな」
吐き出した冷笑の裏で、燃え盛るのは抑え切れない怒り。
八つ当たりのように机を蹴りつけた拍子に、鍵の掛かった引き出しが「ガタン」と開き、中には一冊の古びた日記が静かに眠っていた。
反射的に投げ捨てようとした手が、表紙の文字を目にした瞬間、ページをめくっていた。
「2010.5.20晴れ」
――不思議。喧嘩なんて大嫌いな彼が、私を庇っていきなり拳を振るった。理由を聞いたら、「君の描いた向日葵が綺麗だったから」って。絵を渡したとき、絵具が袖についてしまったのに……彼は笑ってくれた。
「2015.3.12曇り」
――私たち、付き合うことになった!彼は「親に言われたから仕方なく」と言ったけど……それでもすごく嬉しい。
「2015.3.15小雨」
――結婚式から三日。彼はまだ冷たい。美羽のことが忘れられないのはわかってる……でも、いつか誠意は氷をも溶かすと信じたい。
「2020.9.3豪雨」
――また胃が痛いと書斎に籠もった。こっそりお粥を置いたら、一口食べて「下らない」と罵られた。
「2021.9.10晴れ」
――三人目の「美羽」を連れてきた。世話の仕方を教えろと言われ、私は教えた。彼は「お前は気が利くね」と笑っていた。
「2022.12.25雪」
――クリスマス。酔いつぶれた彼は私を抱きしめて「美羽」と呼んだ。聞かなかったふりをして酔い覚ましのスープを作った。吐かれて浴びせられ、片付け終えたのは夜明けだった。母はまた血を吐いた。医療費の請求書……匠馬、私はあとどれくらい耐えればいい?
「2025.10.8曇り」
――十年経った。母の喀血は悪化し、医師は厳しいと言う。匠馬はまた「美羽」を連れてきた。今度の子はこれまで以上によく似ている。あと少し……貯金がもうすぐ目標に。母を連れてここを出れば、きっとすべて良くなる。
最後のページには三日前の日付が記されていた。
「2025.10.10雨」
――今生、再び会うことなし。二度と道は交わらぬ。
「ありえない……」
匠馬の喉が詰まり、初めて恐怖が胸を支配した。日記を勢いよく閉じ、怒声をあげる。
「車を出せ!仁和医院だ!あいつが母親を放っておけるはずがない!」
その時、柳じいが入ってきた。手には病院からの通知を握りしめ、声を震わせながら告げる。
「奥様のお母さん……、本当に亡くなられました」
「な、なんだと……?」
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