夫が娘の遺品を他人に渡した日、私は離婚を決めた第3話
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志真は一晩戻らなかった。
枕は湿って、目は乾いてヒリヒリする。
ゆっくり起き上がって、灰色の空をぼんやり眺める。心まで灰色に染まったみたいだった。
しばらくベッドで座り込んでから、クローゼットの一番下の引き出しを開けた。そこには彼の昔の物が少しだけしまってある。
アルバム、数通の手紙、そして一通のマンション契約書。
私は今まで一度も開いたことがなかった。夫婦には最低限の信頼と尊重が必要だと思っていたから。
でも今は、ただ自分のために答えが欲しかった。
黄ばんだ手紙を開くと、そこには志真が晴海に宛てたラブレターが、真っ直ぐな文字で綴られていた。
私は手紙を閉じた。胸の中の感情は、何と呼べばいいのか分からない。
嫉妬でも怒りでもない。ただ、骨の奥から出てくるような、どうしようもない疲れだった。
――ずっと目をそらしていた細かい違和感が、一気に形を持った。
晴海が引っ越してきた時、志真は驚くほど世話を焼いた。
普段の彼からは想像できないくらい積極的に。
「手伝いましょうか」「この辺のことは俺が案内しますよ」まるで新人の隣人じゃなく、大事な誰かを迎えるみたいに。
そして、晴海の娘・花奈は自然と彼を「唐澤さん」と呼び、いつの間にか「唐澤パパ」に変わっていた。
志真は一度も訂正しなかった。むしろ、嬉しそうだった。
――璃々が生きていた頃は、三十分遊ぶだけでもしんどそうにしていたのに。
彼は優しくなれる人だった。ただ、それは私と娘には向けられなかっただけ。
私と志真は幼馴染。昔から彼は子どもたちの憧れで、歩いているだけで眩しい存在だった。
そんな人と結婚できるなんて、私は思ってもいなかった。
あの日、彼は向かいに座って、少し距離のある笑みを浮かべたまま言った。
「うちの親もお前が好きだし……俺も、まあ、いいと思ってる。試してみるか」
私はそれを、長い片思いの終点だと勘違いした。
十年間の結婚生活、私は必死に回り続けるコマみたいに家を支えた。
誰も私の苦労を気にしない。誰も「疲れてない?」と言ってくれない。
返ってくるのは、「雪乃さんは本当にしっかりしてるね」その一言だけ。
晴海もよく言った。
「雪乃さんって何でもできてすごい。私なんて、少しのことで慌てちゃうのに」
私は笑って誤魔化した。
――「できる」ようになったんじゃない。やらざるを得なかっただけ。
彼女が「できない」のは、ずっと守られてきたからだ。夫が亡くなった後でさえ、彼女には志真がいた。
その時、ドアが開いた。
志真が帰ってきて、入ってくるなり言った。
「雪乃、花奈が昨夜高熱で……」
リビングに私がいないことに気づき、言葉を切って寝室に来た。
腫れた目を見て、彼はすぐに抱きしめてきた。
「雪乃、どこか具合悪いの?」
私は答えず、静かに言った。
「志真、昨日の『離婚』……私は本気だよ」
その瞬間、彼の「心配」は綺麗に消えた。凍るような目で私を睨む。
「理由は?」
私は彼を真っ直ぐ見た。
「この十年のすべて。志真、私はあなたと結婚して、恋だのときめきだのは一度もなかった。残ったのは、手のひらのタコだけ」
私は掌を見せた。家事で硬くなったタコが、灯りに照らされて浮き上がる。
「十年間、あなたの家族のために働き続けて、もう疲れたの。もう無理」
その言葉が、彼を完全に逆上させた。
「深澤雪乃、俺がお前を不幸にしたって言いたいのか?衣食住、全部俺が出してるんだぞ?
離婚なんて、絶対にさせない!」
手首に強い痛み。私は力いっぱい振りほどき、後ろにふらついた。
「唐澤志真、殴る?やってみなよ」
冷たい声が出た。
「私は絶対に離婚する」
そう言って、クローゼットから埃の被ったスーツケースを引っ張り出し、荷物を詰め始めた。
十分もかからなかった。私の荷物なんて、それだけで全部だ。
――離婚してから昔の思い出を返しに行く女じゃない。そもそも、彼は私に何一つ「思い出」をくれる人じゃなかった。
スーツケースを引いて玄関へ向かうと、彼が追ってきた。
「雪乃、お前、弁護士雇う金なんてあるのか?離婚?笑わせるな」
私は乾いた笑いが漏れた。この結婚、私に何を残した?
「志真、弁護士のことはあなたが心配する必要ないよ」
そして彼を見返した。
「私にお金があるかどうかは……離婚してみれば分かるでしょ」
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