夕暮れの山に隠された夢第3話
この話は約1994字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
恵梨が家に戻ると、運転手が車を洗っている。昨夜、病院に運ばれたときに使った車で、どれだけ洗っても血の跡が落ちないらしい。
恵梨はまっすぐ運転手のところへ行き、クレジットカードを一枚差し出した。
「これで、まったく同じ車を一台買ってきて。この車はあなたにあげる。けど、二度とこの家に停めないで」
運転手が出ていったあと、恵梨はリビングに入った。圭吾はすでに帰っていて、恵梨の姿を見るなり、真っ先に抱きしめようと手を伸ばしてくる。
「恵梨、俺、帰ってきたよ。会いたかった?赤ちゃんは?パパのこと待ってた?」
恵梨は表情ひとつ変えず、さりげなく身をかわした。圭吾は眉をひそめる。
「どうした?昨日俺が帰れなかったから、怒ってる?昨日は、会社のことでバタバタしててさ、徹夜だったんだよ。でもね、ちゃんとプレゼント買ってきたよ」
圭吾が手を叩くと、数人のボディーガードが次々とプレゼントの箱を運び込んでくる。
けれど恵梨は視線すら向けず、ふと彼の胸もとに目を落とした。圭吾の鎖骨のあたりに、赤い跡が残っている。白いシャツには、口紅の色がくっきりとついていた。
目の前の男を見つめながら、恵梨はどうしても理解できなかった。どうしてこの人は、他の女と関係を持ったあとで、何事もなかったように、こんな顔で自分の前に立てるのだろう?
「どう?気に入った?気に入ったなら、ちょっと抱っこさせて。疲れてるの」
恵梨は動かなかった。触れたくなかった。汚らわしいと思った。
「私も、疲れたわ」
「疲れた?もしかして、双子ちゃんが元気すぎるのかな?」
圭吾はそう言って、恵梨のお腹に耳を当てた。
「パパだよ、二人とも何してるの?」
しばらく耳を当てていた圭吾は、やがて眉をひそめる。
「恵梨、なんだか、お腹が前より小さくなってないか?最近、食欲ないのか?今日は俺がご飯作るよ。お前、少し痩せすぎだ」
そう言うと、圭吾はキッチンへ入っていった。
暖かなオレンジの光に包まれながら、彼はエプロンをつけて手際よく支度を始める。
恵梨の妊娠を知った日から、彼は料理を習い始めていた。
妊婦にどんな食材が栄養になるのか、赤ちゃんの体重をどう管理すればいいのか、さらには産後の回復期に食べるべきものまで、圭吾は一つひとつを、まるで専門家のように言い当てる。
この四か月間、圭吾がいちばん長く姿を消していたのは、料理を習いに行っていたときくらいだった。
恵梨は目の前の男をじっと見つめ、ぼんやりと考え込んでいた。けれど、結局、抑えきれずに口を開く。
「圭吾、昨日の夜、本当に会社で残業してたの?」
包丁を持つ彼の手がピタリと止まり、少し間を置いてから答える。
「そうだよ。まさか俺がお前に嘘をつくとでも?」
「もし、いつか詩月が戻ってきたら、あなたはどうするの?」
恵梨の口から詩月の名が出た瞬間、圭吾は思わずぎくりとした。
振り向き、彼女が何かに気づいたのかと、圭吾は一瞬疑う。
けれど恵梨の表情は穏やかで、詩月のことを知っているようには見えなかった。
「恵梨、詩月が戻ってこようと、もう俺には関係のないことだ」
圭吾はそう言って近づき、恵梨を抱き寄せる。
「たとえ本当に戻ってきたとしても、俺の中にあるのは憎しみだけだ。彼女にしたことは、全部その憎しみのせいだ。でもお前のことは、心から愛してる」
恵梨は眉を寄せ、さらに何か言おうとした。そのとき、圭吾のスマホが鳴った。彼はそちらに目をやると、あわててエプロンを外す。
「恵梨、ごめん。会社で用事があって、ちょっと行ってくる。眠かったら先に寝てて」
恵梨は思わず笑いそうになった。
「また会社?私が妊娠してから、あなたの会社の用事って、やけに多くなったわね」
「仕方ないだろ、恵梨。双子のためにも、もっと頑張らなきゃいけないんだ。先に行くよ。お前は早めに休んで、俺を待たなくていい」
「圭吾、お腹が痛いの。今日は会社に行かないで、そばにいてくれない?」
恵梨は引き留めたかったわけではない。
ただ、彼の口にする愛という言葉に、どれほどの重みがあるのか――それを確かめたかっただけだ。
「もう、わがままを言うな。お腹が痛いなら運転手に病院まで送ってもらって。俺、すぐ戻るから!」
結局、行くのだ。恵梨の中で、何かが音を立てて落ちた。
「わかった。じゃあ、この書類にサインしてから行って」
「なんの書類?」
圭吾はポケットから万年筆を取り出し、書類に目も通さないまま、自分の名前を書きつけた。
「どんな書類でもいいさ、恵梨。お前が俺の命を欲しいって言うなら、それだってやる。本当に会社の用事があるんだ。食べたいものがあれば、お手伝いに作ってもらって。俺はもう行く」
彼はうつむき、恵梨の額に軽く口づけると、待ちきれないようにその場を後にした。
あまりにもあっさりとサインしたので、恵梨には「これは離婚協議書だ」と告げる隙すらなかった。
けれど、それでいい。彼が知らないままでいい。
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