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夕暮れの山に隠された夢第2話

この話は約1662字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

「奥様、牧原様はきっとお忙しいんだと思いますよ。ご安心ください、こちらから引き続き連絡を試みてみます。それか、他にご家族の方で、付き添ってくださる方はいらっしゃいませんか?」

医師がおそるおそるそう尋ねると、恵梨はゆっくりと瞬きをして、目尻からひとすじの涙が滑り落ちた。

ほかの家族?

恵梨が二十二歳のとき、父が病に倒れ、彼女を生涯の友の息子である圭吾に託した。

八歳年上の彼は、飄々としていて何事にも執着がなく、しかも忘れられない恋人がいると噂される男だった。

恵梨は、そんな彼と結婚するなんて一度も考えたことがなかった。

それは、詩月が海外へ去るまでのことだった。詩月を失ってからの圭吾は、何もかも投げ出したように日々を過ごし、恵梨もまた、父の急逝で一気に生活が傾いた。

そんな、互いに寄るべのなかった時期に、二人は支え合うようにして過ごし、やがて圭吾のほうから恵梨にプロポーズしてきたのだ。

恵梨はそれを、てっきり家どうしの都合のいい結婚だと思っていた。ところが結婚したその夜、圭吾は彼女をリビングの大きな窓に押しつけ、何度も何度も求めてきた。

彼は彼女の柔らかく細い腰を掴み、耳元に唇を寄せて囁いた。

「恵梨……ありがとう。俺を救ってくれて」

そのたった一言で、恵梨の心は、最初の抵抗から完全な恋へと落ちていった。

結婚してからの圭吾は、まるで人が変わったように優しくなった。恵梨を何よりも大切にした。

五年のあいだ、彼は恵梨の生理の日を覚えていて、風邪を引けば一晩中そばにいてくれた。恵梨がふと口にした小さな願いも、ひとつずつ叶えてくれた。

そして恵梨が妊娠を告げたその日、圭吾は彼女の目の前で、スマホに残っていた詩月の写真をすべて消した。

さらに、詩月に関するものをしまっていたその部屋を開け、中にあった思い出の品をすべて処分し、そこを赤ちゃんのための部屋に作り替えた。

「この部屋は、これから俺たちの子どもの部屋にしよう。好きに飾っていいからな」

恵梨は少しためらいがちに問いかけた。

「圭吾、本当にもう吹っ切れたの?あんなに彼女のことを愛していたのに」

「恵梨、何度も言っただろ。もう彼女のことは愛してない。もし気持ちが残っていたとしても、それは憎しみだけだ。あいつはもう過去の人間だよ。お前こそが、俺の未来なんだ」

彼がそこまで言うから、恵梨も信じたのだ。

これまでの妊婦検診には、どれだけ忙しくても圭吾は必ず付き添った。

恵梨は採血が怖いといえば、圭吾は後で山ほどプレゼントを買ってご機嫌をとってくれた。

朝から晩まで、彼はほとんど彼女のそばを離れなかった。

けれど、誰が知り得ただろう。詩月はとっくに帰国していて、しかも彼の手で隠されていたなんて。

詩月のことを憎んでいるなんて、全部嘘だった。

本当に憎んでいるなら、一緒に寝たりするだろうか?本当に憎んでいるなら、妻との結婚記念日の夜に、彼女のもとへ行くだろうか?

「奥様、牧原様からお電話です!」

医師がちょうど電話に出ようとした、恵梨がそれを止めた。

「もういいです。今日私が流産したことは、圭吾には言わないでください」

恵梨は自分で通話を切り、そこにいる医師に視線を向けた。

「退院の手続きをお願いします」

医師は困ったように眉をひそめる。

「ですが、奥様は流産されたばかりで、お体がかなり弱っています。牧原様にお迎えをお願いしたほうが安心かと……万が一のことがあると、私どもでは責任を負いかねます」

「大丈夫です。何かあっても、自分で責任を取りますから」

病院を出ると、恵梨は弁護士事務所へ向かった。

彼女の求めに応じて、弁護士はほどなく離婚協議書を完成させた。

「朝倉様、こちらがご要望に沿って作成した協議書です。ご本人と牧原様お二人の署名がそろえば、正式な離婚手続きに入ることができます」

「ありがとうございます」

恵梨は迷いもなく、自分の名前を書き入れた。

あとは、圭吾のサインをもらうだけだ。

手元の離婚協議書を見つめながら、恵梨はふっと鼻で笑った。父がこれ以上ない縁だと信じていた結婚が、たった五年で終わるなんて。

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