夕映えの嘘を燃やして、新しい夜明けを第2話
この話は約1750字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
紬希は弦夜に背を向けたまま、そっと指先を唇に当て、澪璃に「しーっ」と合図した。それから何食わぬ顔で答える。
「友達が海外に行くんだって、その話をしてただけ」
弦夜が歩み寄り、優しく母娘を腕の中に包み込んで、二人の額に順番にキスを落とした。
「行きたいなら、家族で行くのもありだな」
だが次の瞬間、彼はさりげなく話の方向が変わった。
「ただ紬希、お前の仕事だと手続きが少し面倒かもしれないけど」
紬希は体の脇で、そっと拳を握り込んだ。
またこれだ。手を変え品を変え、仕事を辞めさせようとする。
澪璃が何かを感じ取ったのか、弦夜の裾をくいくいと引っ張った。
「パパ、もう眠い。今日はママと寝たい」
弦夜はすぐに声を甘くして応じた。「はいはい、うちの澪璃は甘えん坊だなぁ」
変わらず優しげなその横顔を見つめながら、紬希の胸にじわりと苦いものがこみ上げた。
もし今日、あの会話をこの耳で聞いていなかったら――きっと自分は、この作り物の幸せを本物だと思い込んでいたかもしれない。
翌朝、紬希と澪璃が目を覚ましたとき、弦夜はもう出かけた後だった。
どこへ行ったかなんて、もう知りたいとも思わない。
ふと、皮肉な安堵が胸をよぎった。
――この結婚が偽物でよかった。離婚の手続きすら要らない。
手早く身支度を整え、澪璃を連れて病院へ向かった。治療に使う薬を受け取るためだ。
だがまさか、こんなところで弦夜と鉢合わせることになるとは。
彼の隣には、目を引く女が立っていた。仕立ての良いワンピースがすらりとした体の線を際立たせ、艶のある黒い巻き毛が肩に流れている。
待合室の案内モニターには、無情な文字が示されていた。
【黒川弦夜・篠原凪紗ブライダルチェック】
――この女が、弦夜の婚約者。国内随一の富豪の令嬢、篠原凪紗(しのはら なぎさ)。
「パパ!」
澪璃がぱっと顔を輝かせて駆け寄り、弦夜の脚にしがみついた。
弦夜の体が、一瞬で強張った。顔から血の気が引いていく。
凪紗が片眉を上げ、冷ややかに口を開いた。「弦夜、この子は?」
弦夜はすぐさま表情を取り繕い、何でもないように言い放った。「うちの家政婦の娘だよ。父親がいないから、男の人を見るとすぐ懐くんだよ」
弦夜の視線が紬希に移り、声の温度が一気に下がる。「紬希、自分の娘の面倒くらいちゃんとしろ」
その一言一言が、冷たい刃となって紬希の胸を抉った。
まさか。新しい恋人を迎えるために、彼は自分の血を分けた娘を家政婦の子と言い捨て、妻をその家政婦に仕立て上げるなんて。
「私――」
嘘を暴こうと口を開きかけた瞬間、弦夜が被せるように遮った。「用がないなら子どもを連れて帰れ」
折しも、診察室から声が飛んだ。「黒川さん、篠原さん、お入りください」
紬希は澪璃の手をそっと握り直し、黙ってその場を離れた。
……
午後。澪璃を寝かしつけた直後、弦夜が怒気を纏って帰ってきた。
リビングに、重い空気がじわりと満ちていく。
「今日、なんで澪璃を連れて病院に来た」
弦夜の鋭い視線が紬希を射抜く。
「わざと俺をつけたのか」
紬希は、怒りを通り越してすっと血の気が引くのを感じた。
父親のくせに、娘が薬をもらう日であることすら頭の隅にもなくて、真っ先に出てくるのが「尾行」だなんて。
紬希の唇に、自嘲めいた薄い笑みが浮かぶ。「つけた?何か、つけられて困ることでもあるの」
弦夜の目の奥が一瞬揺らいだが、すぐにいつもの優しい顔を貼り直す。
「紬希、なんでそんなこと言うんだよ。俺が毎日必死に稼いでるのは、全部お前と澪璃のためだろう」
その言葉に、紬希は危うく声を出して笑い出しそうになった。
ここまで平然と嘘をつける人だったなんて、思わなかった。
紬希は弦夜の目をまっすぐに見た。
「私たちのため?だから別の女と結婚するの?」
弦夜は息を呑み、体が石のように固まった。
「……全部、知ってたのか」
彼は眉を寄せ、さも苦しげな顔を作ってみせる。
「紬希、俺と凪紗はただの政略結婚だ。わかるだろう、俺の心にいるのはお前だけだ。
でも俺は黒川家の人間だ。家には跡継ぎが要る、澪璃の治療にも金がかかる……戻らなきゃいけなかったんだ」
声をさらに落とした。「それにな、紬希。お前だって嫌だろう?いつか誰かに澪璃を指差されて――あの子の母親は毎日死体を相手にしてる納棺師なんだって、そう言われるのは」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)