夕映えの嘘を燃やして、新しい夜明けを第1話
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紬希の仕事は、死者の旅支度を整えることだ。
旅立つ人に、穏やかで美しい最期を飾ってやる。
今、彼女は自分と娘のために、同じようにきちんとした「死」を用意しようとしていた。
大富豪の息子を救って手にした二百億円の小切手を握りしめながら、隣の部屋で夫が大富豪の令嬢との縁談を誰かと相談する声を聞いて――紬希はすべてを悟った。
世の中には、生きながらにして墓に入っているも同然の結婚があるのだ。
ならばこの手で、最後のひとすくいの土をかけてやろう。
* * *
央州市にある会員制ラウンジ『夜風』の最上階VIPルーム。
白石紬希(しらいし ゆうき)は静かに座っていた。向かいにいるのは、国内随一の富豪――篠原沖嗣(しのはら おきつぐ)だ。
沖嗣はつい先ほど、二百億円の小切手を彼女の前に滑らせた。三日前、重傷を負った一人息子を咄嗟に病院へ運んでくれたことへの礼だという。
「白石さん、この金とは別に、君の願いを一つ叶えよう。篠原家にできることなら、遠慮なく言ってくれ」
二百億円――白血病の娘に、最高の治療を受けさせるには十分すぎる額だ。
断る理由などない。けれど、降って湧いたこの「贈り物」を飲み込むには、もう少しだけ時間を置いて整理する必要があった。
紬希は小さく会釈し、席を立って部屋の外へ出た。
テラスへ向かおうと角を曲がりかけた瞬間、薄く開いた隣室のドアの隙間から、聞き覚えのある話し声が漏れ聞こえてきて――足が止まった。
「……弦夜、篠原家との縁談、あれで決まりなのか」
「他に何がある」
続いたのは、黒川弦夜(くろかわ げんや)の声だった。
かつては安らぎそのものだった声だ。ずっと聞いていたいと思っていたのに、今はその奥に冷たい打算がにじんでいた。
「俺と凪紗は、互いに欲しいものを交換するだけだ」
「じゃあ紬希は?お前、あいつとは……」
「紬希?」
弦夜がわずかに間を置いた。その一瞬の沈黙が、見えない刃となって紬希の心をじわじわと抉っていく。
「愛してる。それは変わらない。だが――あいつの仕事は、どうしたって人前に出せるものじゃない」
「納棺師……確かに、口にしづらいな」
誰かが、ふっと鼻で笑った。「まあ気味の悪い仕事ではあるよな。でもお前、あの頃は彼女のために親父さんと大喧嘩して勘当同然になったんだろ。それが今さら……」
弦夜が遮った。声に「目が覚めた」とでも言いたげな、開き直ったような響きがある。
「ガキだったんだよ、あの頃は。
黒川家は俺が背負わなきゃならない。一生、惚れた腫れただけで生きていけるわけがないだろう」
声がひと際低く落ちた。だがそれは、雷のように紬希の耳を打った。
「それに……そもそも婚姻届さえ出していないんだ。あの時の受理証明書も、あいつを安心させるためのただの飾りにすぎない。お前たちだけ知っていればいい。間違っても口を滑らせるなよ」
偽物。
安心させる。
たった二つの言葉が、紬希から立っている気力さえも奪い去った。
冷たい壁に背を預ける。自分の中の何かが、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。
――だから、半年前からしきりに転職を勧めてきたのか。「忙しすぎて家庭を顧みていないから」と。
――だから、ひと月前、手元に置いていたあの婚姻受理証明書を持ち出したのか。「銀行の貸金庫に預けよう、俺たちの愛の証だから大切に保管しておく」と。
結局、最初から最後まで――彼女は都合のいい幻を見せられていただけだったのだ。
五年前の光景が、脳裏をよぎる。
弦夜は紬希の手を強く握りしめ、黒川の屋敷で両親に食ってかかった。
「俺は紬希を愛してる。彼女がどんな仕事だろうと関係ない。黒川がそれを許さないなら、俺が出ていく」
狭いアパートに二人で転がり込んだ日々。彼が不器用に包丁を握り、手のひらに水ぶくれをこしらえながら、それでも笑い合っていた。
「これからは俺が養う。お前も澪璃(みおり)も、絶対に惨めな思いはさせない」
澪璃が白血病だと診断された日。涙が止まらない紬希を、弦夜はきつく抱きしめた。
「怖がるな。俺がいる。金のことは俺がなんとかする。必ず澪璃を治す」
――今となっては、笑い話にもならない。
「怖がるな」の正体は、別の女との政略結婚。彼女と娘は、邪魔になれば切り捨てるだけの荷物。
「なんとかする」の正体は、法的効力のない偽の婚姻受理証明書一枚で、彼女の真心ごと欺くことだったのだ。
心が死ぬと、人は驚くほど冷静になれるものらしい。
紬希は深く息を吸い、目の縁に滲んだ涙を奥へ押し戻した。踵を返し、一歩、また一歩、沖嗣の待つ部屋へ戻る。
沖嗣はちょうど電話を終えたところだった。こちらに向けられた視線が、紬希の感情が抜け落ちたような顔にほんの一瞬だけとどまった。
「白石さん、決まったかね」
「はい」
紬希は顔を上げ、沖嗣をまっすぐに見据えた。声に揺れはない。
「私の願いは――私と娘の『死』を手配していただくことです」
沖嗣の瞳の奥にかすかな驚きがよぎったが、彼はそれ以上何も訊かず、先を促すように短く頷いた。
「徹底的で、誰にも疑われない『死』を。世間の誰もが私たち母娘は死んだと信じ、完全にこの世から消え去り、二度と誰にも見つからない場所へ行く――そういう『死』です」
沖嗣はしばらく紬希を見つめた。幾多の修羅場を潜り抜けてきたその目は、彼女の底知れぬ覚悟をはっきりと読み取っていた。
彼はただ、きっぱりと頷いた。
「いいだろう。七日以内にすべて整えさせる。足取りは誰にも辿らせない」
「ありがとうございます」
紬希は深く頭を下げ、背を向けて部屋を出た。
……
家に帰ると、リビングの照明は落ちたままで、玄関の常夜灯だけがぽつりと灯っていた。
弦夜はまだ戻っていない。澪璃はもう布団に潜り込んで眠っていた。化学療法に青ざめた小さな顔が、静かな寝息とともに揺れている。
紬希はベッドの縁に腰を下ろし、指先でそっと娘の頬に触れた。
「……ママ?」
澪璃がうっすらと目を開ける。紬希の顔を認めた途端、ぱっと瞳が輝いた。
「おかえり!」
その無邪気な笑顔を見た瞬間、鼻の奥がつんと熱くなり、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
紬希は慌てて顔を背け、指で涙を拭うと、無理に笑顔を取り繕った。
「ただいま。今日はおうちで楽しかった?」
「楽しくなかった」
澪璃が小さな眉をきゅっと寄せ、首を振る。そして不意に手を伸ばし、紬希の目尻をそっと拭った。
「ママが泣いてたら、私も楽しくないもん」
もう、堪えきれなかった。紬希は娘をぎゅっと胸に抱き寄せ、声を詰まらせた。
「澪璃……もし、もしママとパパが別々になったら、どっちと一緒がいい?」
澪璃の小さな体がきゅっとこわばる。紬希の首にしがみつき、迷いのかけらもなく言った。
「ママ!パパ最近ぜんぜん遊んでくれないし、ママにいつも怖い顔してる。パパ、もうきらい」
胸の奥にじわりと温かいものが広がる。紬希は娘の背を、とんとんと優しく叩いた。
「じゃあね、ママと一緒に海外に行かない?そこにはすごく上手なお医者さんがいて、澪璃をうんと早く元気にしてくれるの。楽しいものも、いっぱい見られるよ」
「海外?」
澪璃が小首をかしげ、何か言いかけた――そのとき、寝室のドアが不意に開いた。
弦夜の声が、探るような鋭い響きを帯びていた。
「海外?誰が海外に行くって?」
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