壊れた絵巻、消えゆく愛第3話
この話は約1796字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
部屋の中から、くぐもった怒鳴り声と、梨愛の言い訳と、途切れ途切れのすすり泣きが聞こえてきた。
でも、もうどうでもよかった。
……
その夜、家に帰ってから、スケッチブックを広げて修復を始めようとした。
ちょうど筆を持ち上げたとき、スマホの画面が光った。
以前注文しておいたプチギフトの専門店からの、デザインの最終確認の連絡だった。
開いてみると、私たちをモデルにしたイラストのキャラクターが2人、並んでいた。
線は柔らかく、色は温かく、描いてもらった当時は胸いっぱいの幸せがあった。今はただ、失望だけが残っていた。
少し間を置いてから、キーボードにメッセージを打ち込んだ。
【ありがとうございます。キャンセルでお願いします】
送信した直後、以前やり取りしていた編集長から電話がかかってきた。
「大崎さん、大変申し訳ないのですが、先日結ばせていただいた出版契約を、こちらから解除させていただくことになりました。詳細はお伝えできないのですが、ほかによりふさわしい作家が見つかりましたので。大変失礼いたしました」
電話が切れた。ツーツーという音だけが続く。スマホを握る指先が、冷たくなっていた。
理由はわからないのに、ふと、ある推測が頭をよぎった。
真宙の番号を探して、そのまま発信した。
「出版社との契約、あなたが裏で手を回したの?」
電話の向こうで、数秒の沈黙があった。
この沈黙に、私は慣れすぎていた。言葉を選ぶとき、私を傷つけるような残酷な事実を口にする前、真宙は必ずこうして押し黙る。
「梨愛は今、お前より厳しい状況にいる。向こうでひどいDVを受けていたんだ。やっと離婚して帰ってきた。ここで生活を再建するための足がかりが必要なんだ。
昔、俺と両親は梨愛のお父さんたちに助け出されたんだ。両親は彼女の面倒をきちんと見ると約束した。だから、俺の立場も少しは分かってほしい」
目を伏せた。にじんだ色のスケッチブックを見つめていたら、涙が予告もなくこぼれた。
このスケッチブックは、母が逝く前に描きかけていたものだ。どうしても出版したいと、私は母に約束した。
3年をかけて、1筆1筆、母の未完の絵を補い続けた。色は試行錯誤しながら自分で探し出し、物語は母のノートをもとに一から組み立てた。
あの病室で、私は母に誓った。真宙と幸せになると。そして絵本を世に出すと。
たった2つの願いだったのに、どちらも果たせなかった。
私のすすり泣きが聞こえたのか、真宙の声が少しだけ柔らかくなった。
「そんなに思い詰めないでくれ。もっといい出版社を必ず見つけてやるから。お前の作品を埋もれさせたりなんか絶対にしない」
「……もう、いい」
この物語は、もう描き続けたくなかった。
日々は静かに流れていった。何事もなかったかのように。
私は部屋に籠もって鍵をかけた。これまでの画稿も、絵本も、スケッチも、全部整理して、棚の一番奥にしまい込んだ。
それから新しい画用紙を広げて、筆を持ち直した。母のための、新しい物語を始めるために。
3日後、スマホが鳴った。国際電話の番号だった。
「もしもし、大崎百華様でいらっしゃいますか?私どもはF国を代表する独立系アート出版社でございます。個人サイトに掲載されていた作品を拝見し、シリーズ作品を買い取らせていただけないか、ご相談したく……」
思わず固まった。
F国のその出版社は業界の最高峰で、極めてハードルが高いことで知られている。過去に3回投稿したが、返事すら来なかった。
こんな出来すぎた偶然などあるはずがない。裏で真宙が手を回したのだ。
「せっかくのお話ですが」
気持ちを落ち着けて、答えた。
「現在、作品を売却する予定はございません」
向こうはほんの少しだけ黙ってから、鼻で笑うような声を出した。
「大崎さん、そんなにもったいぶらなくてもいいでしょう?入江社長のコネで手に入れたチャンスを、一体何様のつもりで断るんです?自分の実力だとでも思ってるんですか?」
聞き慣れない言語で吐かれた罵声だけは、はっきりと耳に届いた。
何も言わずに、私は静かに電話を切った。
それからまた数日後、小さな出版社やアトリエのサイトをひとつひとつ調べながら、新しい可能性を探していた。
ふと、あるアトリエの名前が目に飛び込んできた。クリックすると、紹介文はたった1行だけだった。
【初心を忘れず】
初心を貫くことこそが、人間にとって一番難しい。
その言葉を、私はしばらく見つめていた。
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