嘘の裏に滲む痛み第2話
この話は約1931字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
「もういいでしょ、時間を無駄にしないで。中に入りましょう」
私は苛立ちを隠さず、透子の言葉を遮る。
この七年間、私は何度も透子と顔を合わせてきた。彼女は表面のように無垢で愛らしい女ではない。十年も芸能界で生き残ってきた女が、そんなに単純なはずがない。
だから私は彼女の芝居を見る気にもなれず、そのまま背を向け、中へと歩き出す。
思いもよらず、透子も後を追ってくる。
そして彼女の視線が離婚届に釘付けになっているのを見た瞬間、ようやく気づく。
――彼女は監視役として来たのだ。
市役所に離婚届を出す前、私たちは離婚協議書を交わしてきた。
以前の離婚協議書では、深司が「俺は全てを置いて出ていく」と書き残し、それが私の唯一の安心材料になっていた。
だが今回は違う。出ていくと書かれていたのは、私の方だった。
深司は言った。もし自分の資産に動きがあれば、上場を控えた会社に影響が出ると。
私がその条件に同意の印を押したのは、彼を信じたからじゃない。ただ、もう争う気力が残っていなかっただけだ。
手続きを終えたあと、私は市役所の前でタクシーを拾う。
深司が駆け寄り、腕をつかむ。
「お前の両親の家にはどれくらい滞在するんだ?住所を教えてくれ。手土産でも持って挨拶に行きたいんだ」
「必要ないわ」
私は冷ややかに答える。
今度の私は本当に違う――そう悟ったのか、彼の手が無意識に強くなる。
「薫……俺たち、また一緒になれるんだよな?」
その時、透子が駆け寄ってきて、慌てた声を上げる。
「深司、子どもが熱を出したの!どうしよう!」
私はそっと彼の手を振り解き、二人に向かって言う。
「撮影、うまくいくといいわ」
そう告げてタクシーに乗り込み、振り返ることなく走り出す。
車が動き出した瞬間、涙はもう止められない。
手の中に残った、受理印の押された離婚届の控えを見つめながら、何度も経験してきたはずなのに、胸は針で刺されるように痛む。
――私はあの時、彼への愛という渦に自ら飛び込み、逃げ道を一つも残さなかった。
大学時代、同室の友人が忠告してくれた。
「バツイチ男なんて、信用できるとは限らないよ。そんなに信じ切らない方がいい」
私は強く言い返した。
「深司は違うの。本当に私を愛してくれてる。
あなたはきっと言うでしょうね。こんなに優れた男の周りには女が尽きないって。でも大丈夫、覚悟はできてる。私は彼に伝えたの。男が外で気まぐれに遊ぶことくらい理解するって。心の中に私がいれば、それで許せる。
この一生、私は彼を選んだの」
――七年の青春を捧げたはずなのに、残ったのは粉々に砕けた心だけだった。
タクシーを降りると、そのまま両親の豪邸へ足を踏み入れる。
門を押し開けた途端、母が笑顔で駆け寄り、いたずらっぽく言う。
「薫、目を閉じてみて」
私は素直に目を閉じ、母に手を引かれるまま歩いていく。
「……さあ、開けて」
目の前に現れたのは真っ赤なフェラーリ。そしてその横には、知也と父が立っている。
父が笑いながら口を開く。
「大事な娘への贈り物、本当は父さんが渡すつもりだった。けど、知也がどうしてもサプライズにしたいって言うからね。だから父さんからはこっちだ」
そう言って、背後からまるで手品のように取り出したのは――青く輝くサファイアのネックレス。
つい数日前、ニュースで【謎の人物が数億円で落札した】と報じられていたあのサファイアだ。
まさか、それが私への贈り物だったなんて。
目頭が熱くなり、目の前で笑う三人を見つめながら、胸の奥に言葉にできない痛みが広がっていく。
――これも天の采配なのかもしれない。
愛を失った代わりに、親と友の愛情で私の心の空白を埋めてくれる。
昼食を済ませると、知也は仕事があると言って会社へ戻っていく。
母は私をソファに座らせ、声をひそめる。
「薫、知也はきっとあんたを大事にしてくれるわよ。お父さんも人柄を褒めてるし、事業も順調だって。あんたも離婚したことだし、考えてみてもいいんじゃない?」
私は思わず笑い出す。
「やだ、やめてよ。知也は女の人に興味ないんだから」
母は意味ありげに笑みを浮かべ、それ以上は何も言わない。
翌日、私は新しい車のハンドルを握りしめ、胸いっぱいに感慨を覚える。
深司と付き合い始めた頃、彼の会社はまだ立ち上げたばかりで、小さな規模にすぎなかった。
私は彼の苦労が分かるから、贅沢は望まなかった。高価な贈り物も断り、彼のお金を使うこともなかった。
大学を卒業すると同時に彼と結婚し、そのまま彼の会社に入り、客先との交渉や雑務まで全部手伝い、アシスタントとして彼を支え続けた。
彼の苦労を知れば知るほど、自分のためにお金を使う気にはなれなかった。
彼が「車を買ってやろうか」と言ったこともあったけれど、私は即座に首を振った。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)