君といた、朝露と蛍火の頃第3話
この話は約2095字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
その後の数日間、慎也が毎晩そばにいてやったおかげで、玲奈はみるみる元気を取り戻した。退屈すると、たまに女友達を呼んで、優雅にアフタヌーンティーまで楽しむほどだった。
「ねえ玲奈、慎也さんってやっぱりあなたのこと、ずっと想ってたんだよ。あなたが昏睡してたあの一年、彼、しょっちゅうイギリスまで飛んで来てたの。しかもさ、『玲奈が目を覚ますなら、妻と離婚してもいい』って神様に誓ったらしいわよ?」
咲良はちょうどその言葉を耳にしてしまった。胸の奥に、鋭いナイフで切り裂かれたような痛みが走る。
慎也の姿はなく、玲奈ももう仮面を被る気すらないのか、わざとらしく鼻を鳴らして咲良を呼び止めた。「咲良、このコーヒー……まるで出がらしみたい。見てるだけで気持ち悪くなりそうなんだけど?」
咲良は無表情のまま、黙ってカップを手に取ろうとした。だがその手首を、誰かが乱暴にひねり上げた。
「ちょっと何その態度?玲奈のお世話係のくせに、玲奈を気分悪くさせるなんて最低。土下座して謝りなさいよ、ほんとムカつく女!」
玲奈の目配せを受けた女友達の一人が、怒鳴り声を上げた。
咲良が反応する間もなく、その女に髪を掴まれ、直後、熱々のコーヒーが咲良の顔に向かってぶちまけられた――
「やめろ!」
その瞬間、玄関から低く怒鳴る声が響いた。帰宅したばかりの慎也が、冷たい顔で駆け寄り、咲良を背後にかばうように立ちはだかる。
「誰が彼女に手を出していいって言った?」
怒声が飛んだ次の瞬間、玲奈はまるでスイッチを切り替えたように、目に涙を浮かべ、腹を押さえて苦しげに身を縮める。
「ちがうの、聞いて慎也!……彼女たちを責めないで、全部、私のためなの。咲良が、私のコーヒーに乳製品を混ぜたの。だから……お腹がすごく痛くて!」
慎也の動きがぴたりと止まった。彼の目が、咲良に向けられる。その視線は、冷たい氷のように突き刺さった。
乳製品?
「咲良……俺、ちゃんと言ったよな。玲奈は乳糖アレルギーなんだって」
……なんて滑稽だろう。彼女をかばっていた男が、たった一言の嘘で手のひらを返すなんて。
「私はやってない!彼女、嘘をついてるの!」熱いコーヒーが髪を滴らせる中、咲良の声は震えていた。
けれどその声は、玲奈の完璧な演技と、彼女の友人たちによる見事な「証言」にかき消されていった。
慎也は怒りを爆発させ、テーブルの上のカップを叩き割ると、玲奈をひょいと抱き上げた。「咲良、君はここで頭を冷やせ!」
それでも玲奈はまだ満足しなかった。潤んだ瞳で慎也を見上げ、震える声で訴えた。「……病院なんて行きたくない。こんな風に人にいじめられたの、初めてなの。……もう耐えられないよ、慎也。いっそ、このまま死なせて……」
慎也の顔に迷いがよぎったものの、やがて彼は完全に冷たくなり、低い声で護衛たちを呼びつけた。「……咲良を後ろの禁固室に連れていけ!」
――禁固室。それは久我家に仕える護衛たちが、「鉄の規律」を破った者が送られる、制裁部屋だった。
その広さはわずか二畳、窓も光もなく、なかにはあらゆる虫や蟻が放たれている……
咲良は護衛に両腕を拘束されながら、必死に抗った。
「お願い、やめて!お願いだから、やめて!」
けれど、玲奈を抱きかかえて別荘を出ていく慎也は、一度も振り返らなかった。
――24時間。咲良は暗室の隅に丸まって、全身を刺すような痛みに耐え続けた。
無数の虫が肌を這い回る感覚に、気が狂いそうになった。
何度も泣き叫んだ。それでも、外にいる護衛たちはただ黙って立っているだけで、彼女の声など一切聞こえないふりをした。
やがて意識が薄れていく中、咲良は自分の肌に残された赤く腫れた痕をなぞった。もう痛みすら感じなくなっていた。ただ、一筋の涙が頬を伝い落ちた。
……その最後の一滴とともに、彼への愛情も、すべて消えていった。
「……咲良、お願い、目を覚ましてくれ……」
聞き覚えのある男の声が、彼女の意識を現実へ引き戻す。
ゆっくりと目を開けると、そこはゲストルームのベッドだった。天井には、水晶のシャンデリアが煌めいていた。
ベッドの横には慎也が座っていた。彼女が目覚めたのを見て、ようやく安堵の表情を浮かべた。「……咲良、怒ってるのはわかってる。でも、君がやったことは間違ってた。どんな理由があったとしても、玲奈を傷つけるなんて」
目を覚まして最初に聞かされるのが、そんな言葉だとは。
咲良は小さく笑った。その笑みには、皮肉と絶望が混じっていた。「……そんなに彼女の言うことを信じるの?」
慎也は眉をひそめ、不機嫌そうに吐き捨てた。「もうやめろよ。母さんの遺骨、海辺で供養してもらってきたんだ。これ以上、揉めたくないんだよ。今は玲奈の体調の方が問題なんだ」
「小さい頃から大事に育てられてきた彼女が、今回のことでショックを受けて、原因不明の症状が出て……夜も眠れないんだ。呼んだ霊媒師が言ってたよ。……彼女を傷つけた人間が、その手でイバラを削ってお守りの数珠を作らないといけないって」
咲良は、言葉を失った。
彼が自分のそばにいた理由。彼女が目覚めるのを願っていた理由。すべては――玲奈のためだった。
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