君が白髪になるその日を待ち、愛が燃え尽きるまで第3話
この話は約2280字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
再び目を開けると、視界に映ったのは、病院の真っ白な天井だけだった。
鼻をつく消毒液の匂いに、澪は思わず身を起こしかけた。けれどその瞬間、顔や体のあちこちに鋭い痛みが走った。
「澪さん!」
林先生は、澪が顔の傷に手を伸ばそうとするのを見て、すぐさま駆け寄ってその手を掴んだ。
「動いちゃダメです。植皮手術を終えたばかりで、今がいちばんデリケートな時期なんですから……」
植皮?
澪は一瞬呆然とし、次の瞬間、洗面台へと駆け出していた。鏡に映る自分の顔には、大小さまざまな傷がにじみ出た血で覆われ、無数の痕が刻まれていた。澪はその姿に目を閉じるしかなかった。
背後から林先生の必死な声が追いかけてくる。
「やっぱり、動かないほうがいいです。今は辛いかもしれませんが、ちゃんと治療を続ければ、元の姿に戻れる可能性だってあるんです」
澪の頬を、涙が一筋、音もなく滑り落ちた。傷に染みて、ひりひりとした痛みが募った。
「でも……もう私には、未来なんてない……」
そのとき、病室の入口に涼介が立っていた。彼の目には、深い影のような暗さが宿っていた。
「今回の件は、お前が琴音に迷惑をかけたんだ」
「琴音の肌は繊細なんだ。お前の平手打ちで顔に傷が残って、顔まで台無しになった。だから、お前が責任を取るべきだ」
「昼間の件は琴音が先に手を出した。でも、もう十分に痛い目を見た」
澪は呆れて笑った。笑った拍子に顔じゅうに鋭い痛みが走り、血がまた滲んだ。
「どんな罰を受けたっていうわけ?」
涼介は眉をひそめ、不満そうに答える。
「琴音は痛みに弱い。植皮手術の痛み、それだけでも十分だ」
涼介が琴音に甘いことくらい、澪だって知っている。でもその言葉を聞いた瞬間、もう感情が抑えきれなかった。限界だった。
「……つまり、私の顔についた三十以上の傷と引き換えに、琴音が感じた痛みが罰だって言いたいわけ?」
涼介のまとう空気が一気に冷たくなったが、表情は相変わらず氷のように無機質だった。
「澪、お前は何をそんなに抗っている?」
「素直に謝れば、お互いにとって悪くない選択になる」
澪は拳を握りしめ、爪が掌に食い込んだ。彼女は勢いよくスマホを掴み、警察に通報しようとした。だが、涼介は冷たく一瞥を送るだけだった。
「お前、昼間言ってただろ。俺たちはまだ離婚していないって」
「だから、お前の手術には俺がサインした。通報したいならすればいい。帝都で、この件を引き受ける警察官がいるなら、な」
そう言い残し、涼介は完全に興味を失ったように背を向け、病室を出ていった。
澪はひとり、乱れた髪のまま、スマホのぼやけた「110」を見つめていた。悔しくて、悔しくてたまらなかった。どうして、あんな男を愛してしまったんだろう。
澪はもう、治療に時間をかける気もなく、そのまま自宅へ戻った。
家にはすでに琴音が居座っていた。リビングでは、インスタに投稿するための写真を撮っていた。
澪は琴音と関わりたくなかった。ただ階段を上って、不動産登記証明書を探すつもりだった。この家を売る。絶対に涼介の手に渡すわけにはいかない。
そんな澪の背中に、琴音の声が飛んだ。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
澪は振り返らずに歩き続けた。だが、突然腕を乱暴に引かれた。抵抗しようにも、病み上がりの体には力が入らず、琴音が彼女の前に座り込むのをただ見ているしかなかった。
澪は見逃さなかった。琴音の顔には、うっすらと傷が残っていた。
「澪、このネックレス、涼介が私に買ってくれたの」
「世界に一つだけのものよ」
琴音は満面の笑みで勝ち誇ったように言った。澪にはわかっていた。涼介の無条件の甘やかしがなければ、琴音がここまで傲慢になることはなかったと。
それでも澪は顔を伏せ、琴音の言葉には一切反応せず、呼吸を整えて体力を温存しながら階段を上ろうとした。
琴音は、そんな澪の無反応に苛立ち、無理やり彼女の顎を持ち上げた。
「ねえ、何を気丈なフリしてるの?心の中じゃ怒ってるんでしょ?長いこと愛した男に、愛されなかったのよ!」
澪は静かに顔を上げ、まるで世の中で一番くだらないことを聞いたかのように、鼻で笑った。
「じゃあ、あなたは?他人の結婚に割り込んで、やっとその男を手に入れたとして……また誰かに取られるかもって、怖くないの?」
「哀れね」
琴音の過大な自尊心が大きく傷ついたのか、その瞳に一瞬、凶暴な光が宿った。
「澪、覚えておきなさい。私はあなたの一番大切なものを、すべて奪ってやるから!」
澪は琴音の言う「大切なもの」が涼介の愛だと思っていた。けれど、その夜、思いもしなかった出来事が起きた。別荘全体が、突然、大火に包まれたのだ。
もうもうと煙が立ち込めるなか、澪は誰かに強く引き上げられ、後ろでは消防士が必死に彼女を守りながら外へと連れ出していた。
安全な場所へ運ばれた澪は、呆然とつぶやいた。
「……だめ、だめ……」
すべてを悟った澪は、両親の位牌を取りに戻ろうとした。だが消防士が必死にその体を押さえつけた。
琴音はすでに涼介に救い出されており、彼の腕に抱きかかえられながらも、不満そうな顔をしていた。
「私、悪くない!何が悪いのよ?あの女が私のことを愛人呼ばわりしたのよ!私を傷つけたの!だから、私が罰を与えたのよ!」
涼介は、初めて琴音を庇わず、厳しい声音で黙らせた。
けれど、澪の耳にはもう何も届いていなかった。ただ、目の前で燃え盛る炎がすべてを焼き尽くしていく光景だけがあった。澪の最後の拠り所だった家。その記憶も、炎とともに煙となって消えていった。
澪は絶叫しながら苦しみに耐えきれず、血を吐いてその場に崩れ落ちた。
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