名もなき星として輝く第3話
この話は約3306字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
「坊や、お母さんの方が重傷なんだ。脳内出血の可能性があって、すぐに緊急処置が必要なんだよ!」
「いやだ!先に莉奈おばちゃんを助けて!」
結愛も金切り声を上げた。
「先に莉奈おばちゃんを助けて!」
救急隊員は困り果てているようだった。
その時、蒼真の低く掠れた声が響いた。そこには有無を言わせぬ決断が込められていた。
「莉奈を先に」
「でも九条さん、奥様の方が……」
「俺の言う通りにしろ!次の救急車がすぐに来るだろう」
蒼真の声は急に高くなり、焦燥と命令の色を帯びていた。
慌ただしい足音が響き、ストレッチャーが運び出された。
結衣は最後の力を振り絞り、血で覆われた目をわずかに開けた。
ぼやけた視界の中で、蒼真が気を失った莉奈を抱きかかえ、子供たちに囲まれながら、ストレッチャーと一緒にあの救急車に乗り込むのが見えた。
彼女を一人、事故現場に取り残して。
意識が完全に暗闇に沈む前、彼女はふとずっと昔のことを思い出した。
ある時、果物を切っていて誤って指を切ってしまったことがあった。
ほんの小さな切り傷だったが、蒼真はひどく慌てて、数億円の契約の商談を即座に放り出し、自分を車に乗せて病院へ消毒に行った。
道中、彼は眉をひそめたまま、「痛くないか?」と何度も自分に尋ねた。
まだ子供たちが幼かった頃、蒼真は彼らを抱きかかえ、自分を指差してこう言ったこともあった。
「悠真、結愛、覚えておきなさい。これがママだ。お前たちは大人になったら、一緒にママを守るんだぞ、わかったか?」
二人はその時、よくわかっていない様子で頷き、自分の胸に飛び込んで、舌足らずな声で「ママを守る!」と言った。
それが今はどうだ。
子供たちは救急車を引き止め、莉奈を先に救えと言っている。
そして二人の父親、命を懸けて自分を守ると誓った男は、自らの手であの女を先に救うことを選んだ。
自分がここで血を流し尽くすのを見捨てて。
そうか、人の心は本当に変わるのだ。
愛は、本当に消えてしまうのだ。
再び目を覚ますと、そこは病院だった。
結衣がゆっくりと目を開けると、ベッドの脇に蒼真と子供たちがいるのが見えた。
彼女が目を覚ましたのを見て、蒼真は安堵の息をついたようだった。
「結衣、気がついたか?体の具合はどうだ?」
彼の気遣いは、今の結衣には限りなく白々しく、吐き気を催すものにしか聞こえなかった。
「あの時……あなたは私を救わないことを選んだ。今更、白々しく心配してみせる必要があるの?」
蒼真の表情がこわばった。
「莉奈は体が弱く、気を失っていた。緊急事態だったんだ。俺はただ……状況を天秤にかけて、最も確実な選択をしただけだ。結衣、わかってくれ」
わかってくれ?
何を理解しろと言うのか。
事故現場で自分を見殺しにし、軽傷で気を失っただけの女を助けに行ったことを理解しろと言うのか。
その時、一人の看護師がノックをして入ってきた。
「九条さん、水城さんが目を覚まされました。少し情緒不安定で、ずっとあなたを探しておられます……」
蒼真はすぐに立ち上がった。
「結衣、ゆっくり休んでいてくれ。俺は……先に莉奈の様子を見てくる。悠真、結愛、ここでママのそばにいてやりなさい」
そう言うと、彼は足早に病室を出て行った。
子供たちは残されたものの、明らかに上の空だった。
悠真はしきりにドアの方を見つめ、結愛はキッズ携帯をいじりながら小さな声で呟いた。
「莉奈おばちゃん、大丈夫かな……」
その様子を見て、結衣は胸を締め付けられ、たまらず口を開いた。
「もし……もしママとパパが離婚したら、あなたたちはどっちについて行くの?」
子供たちは同時に顔を上げ、きょとんとした。
悠真の目が先に輝き出した。
「離婚?それって、ママとパパがバイバイして、一緒に住まなくなるってこと?」
結愛も身を乗り出した。
「じゃあ、パパは莉奈おばちゃんと一緒にいられるの?」
結衣が答える前に、悠真が遮るように言った。
「それなら絶対にパパと行く!だってパパと一緒なら、毎日莉奈おばちゃんに会えるもん!」
結愛も力強く頷いた。
「うん!私もパパと莉奈おばちゃんと一緒にいる!」
その言葉の数々が、重いハンマーのように、すでに粉々に砕け散った結衣の心に容赦なく打ち下ろされた。
彼女は信じられない思いで、自分のお腹を痛めて産んだ目の前の二つの小さな命を見つめ、声を震わせた。
「つまり……私よりも、水城の方が好きだってこと?」
「当たり前じゃん!」
悠真が即座に言い放った。
「莉奈おばちゃんはたくさんのおもちゃで遊んでくれるし、遊園地にも連れてってくれるよ。ママなんて、いつも『お仕事終わるまで待ってて』って言うくせに、いつまでたっても終わらないじゃない!」
結愛も小さな声で付け加える。
「莉奈おばちゃんは可愛いスカートを着せてくれるし、お菓子もくれるし、テレビも見せてくれるもん。ママはいつも、お菓子も食べちゃダメって言う……」
二人は莉奈の数々の良いところと、実の母親である結衣の数々の悪いところを並べ立てた。
それを聞きながら、結衣の心は少しずつ沈んでいった。
家庭のため、仕事との両立のために疲弊し奔走していた間に、子供たちは、別の女の計算し尽くされた優しさにすっかり手懐けられていたのだ。
その時、結愛が悠真の袖を引っ張り、小さな声で言った。
「お兄ちゃん、パパあそこに一人でいるけど、莉奈おばちゃんのことちゃんとお世話できるかな……ちょっと心配だから、私たちも莉奈おばちゃんのところに行こうよ?どうせ……ママはもう大丈夫みたいだし」
悠真はすぐに頷いた。
「僕も莉奈おばちゃんが心配だ!行こう、早く行こう!」
二人はそう言いながら、外へ向かって走り出そうとした。
振り返った時、悠真が誤ってベッドサイドテーブルの上の電気ポットにぶつかってしまった。
電気ポットが倒れ、中の熱湯が一瞬で溢れ出し、結衣の薄い布団がかかった足に容赦なく降り注いだ。
「きゃああっ――!」
焼けつくような激痛に結衣は悲鳴を上げ、顔色は一瞬にして蒼白になった。
二人はこの予想外の出来事に驚き、振り返って苦痛に顔を歪める結衣を見た。
結愛が小さな声で尋ねた。
「お兄ちゃん……どうしよう?ママ、アチチってなっちゃった……」
悠真は一瞥すると、結愛の手を引いた。
「ちょっとアチチってなっただけだよ、平気だよ。早く行こう、莉奈おばちゃんの方が僕たちを待ってる!」
そう言うと、彼は本当に、何度も振り返る結愛の手を引き、一度も振り返ることなく病室から走り去ってしまった。
結衣は痛みに全身を震わせ、額には一瞬で冷や汗が浮かんだ。
彼女はただ苦痛に耐えながら手を伸ばし、ベッドサイドのナースコールを押すしかなかった。
すぐに看護師が駆けつけ、彼女の状況を見て息を呑み、慌てて医師を呼んで処置に当たらせた。
水疱の洗浄、薬の塗布、包帯の交換。
すべての処置の間、結衣は歯を食いしばり、一言も発さなかった。ただ涙だけが音もなく流れ落ちていた。
看護師は処置をしながら、たまらずため息をついた。
「橘さん、どうしてそばに誰も付き添っていないんですか?熱湯の火傷はあなどれませんよ。感染したら大変なことになりますから」
結衣は目を閉じたまま、何も答えなかった。
看護師はさらに愚痴をこぼした。
「はあ、隣のVIP病室の水城さんだって、同じ交通事故で運ばれてきたのに、ただの軽傷なんですよ。それなのにご主人とお子さんたちが、一歩も離れずにずっと付き添っていて、すごく心配されてるんです。同じ人間なのに、運命が違うなんて……」
結衣は何も言わず、ただ低く笑い始めた。笑い声は掠れていたが、涙はさらに激しく溢れ出た。
看護師が去った後、病室は死んだような静寂に包まれた。
結衣は病床に横たわり、真っ白な天井を見つめていた。その瞳は少しずつ冷たく、そして確固たるものに変わっていった。
彼女はスマートフォンを取り出し、新聞社の上司の番号に発信した。
「社長、橘結衣です」
「おお、橘さんか。体調は良くなったか?交通事故に遭ったと聞いたぞ。ゆっくり休んで、仕事のことは後回しでいいから……」
「社長」
結衣は彼の言葉を遮り、感情のない平坦な声で言った。
「私、戦場ジャーナリストに志願したいんです」
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