台風の夜、彼氏は幼なじみのもとへ第1話
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台風が上陸したその夜、私、佐野帆立(さの ほたて)は地下駐車場に閉じ込められていた。
流れ込んだ濁流がフロントガラスを覆い尽くした瞬間、私は救助隊長を務める恋人の小倉透(おぐら とおる)に電話をかけ、ようやくつながった。
だが、向こうから聞こえてきたのは、彼の幼なじみ、若松芽衣(わかまつ めい)の声だった。
「帆立さんって、ほんと束縛キツいですよね。透くん、今はうちのベランダの窓を補修してくれてる最中なんですけど」
こちらに言い返す隙も与えず、通話は一方的に切られた。
やがて車内の水位は天井近くにまで迫り、私は奥歯を噛みしめて窓ガラスを叩き割ると、必死に濁流をかき分け、車の外へ泳ぎ出た。
地上へ這い上がり、バッテリー残量1%のスマホを確認する。画面には、透からの短いメッセージが届いていた。
【芽衣はタワマンの高層階にひとりで住んでいて、雷が怖いらしい。急ぎの用じゃなければ、台風が過ぎてからでいいか】
額を伝う血を拭い、私は婚約指輪をそっと外すと、迷うことなく泥水の中へ投げ捨てた。
そして、静かにひと言だけ返信した。
【いいよ】
* * *
台風が上陸したその夜、私、佐野帆立(さの ほたて)は地下駐車場に閉じ込められていた。
流れ込んだ濁流がフロントガラスを覆い尽くした瞬間、私は救助隊長を務める恋人の小倉透(おぐら とおる)に電話をかけ、ようやくつながった。
だが、向こうから聞こえてきたのは、彼の幼なじみ、若松芽衣(わかまつ めい)の声だった。
「帆立さんって、ほんと束縛キツいですよね。透くん、今はうちのベランダの窓を補修してくれてる最中なんですけど」
こちらに言い返す隙も与えず、通話は一方的に切られた。
やがて車内の水位は天井近くにまで迫り、私は奥歯を噛みしめて窓ガラスを叩き割ると、必死に濁流をかき分け、車の外へ泳ぎ出た。
地上へ這い上がり、バッテリー残量1%のスマホを確認する。画面には、透からの短いメッセージが届いていた。
【芽衣はタワマンの高層階にひとりで住んでいて、雷が怖いらしい。急ぎの用じゃなければ、台風が過ぎてからでいいか】
額を伝う血を拭い、私は婚約指輪をそっと外すと、迷うことなく泥水の中へ投げ捨てた。
そして、静かにひと言だけ返信した。
【いいよ】
……
吹きすさぶ暴風雨が、コンビニの窓ガラスを激しく打ちつけていた。
私はよろめきながら扉を押し開け、血と泥にまみれた足跡を、店内の床に残してしまった。
若い店員が驚き、カウンターの奥から飛び出してくる。
「お客さん、大丈夫ですか!?事故に遭ったんですか?」
顔から血の気を失ったまま、私は震える唇で答えた。
「充電ケーブル、借りられますか」
「ありますよ。こちらへどうぞ」
店員は私を椅子に座らせると、清潔な毛布と充電ケーブルを差し出してくれた。
スマホの電源が入ると同時に、私はSNSを開く。
タイムラインの一番上に表示されたのは、10分前に投稿された芽衣の写真だった。
オレンジ色のレスキュー服を着た透が、脚立の上で身をかがめ、割れたベランダの掃き出し窓を応急処置している。
添えられたキャプションはこうだ。
【台風の夜、タワマンの高層階は揺れが怖すぎる。わざわざ駆けつけてくれた透くん、ありがとう。そばにいてくれるだけで、こんなに安心できるなんて。台風、もうちょっとゆっくり通り過ぎてくれないかな】
透がコメントしていた。
【台風なんかいつまで居座らせてるんだよ。さっさと追い払えって】
芽衣はそれに返信していた。
【台風は追い払っても、あなたなら残ってくれてもいいけど?】
ふたりのやり取りは、見ているこちらがいたたまれなくなるほど親密だった。
私はしばらくその写真を見つめたあと、静かに「いいね」を押した。
スマホの電源が落ちていた間、透からは3件の着信が入っていたらしい。
そして今、再び電話が鳴った。
通話ボタンを押すと、開口一番、透は頭ごなしに怒鳴りつけてきた。
「帆立!俺の電話を無視するとは、いい度胸だな。今、外がどれだけ荒れてるか分かってるのか?俺は救助隊長として一晩中外を駆け回ってるんだぞ。少しは俺の立場も考えてくれよ。よりによってこんな時に音信不通になるなんて、俺を困らせたいのか?」
そのとき、店内のテレビから緊急ニュースが流れてきた。
「市内は百年に一度と言われる記録的豪雨に見舞われ、一部の低地道路および地下駐車場で深刻な浸水被害が発生しています。すでに死者も……」
画面を見つめながら、体の芯から冷えていくのを感じつつ、私は電話口の透に尋ねた。
「今、どこにいるの?」
透は一瞬言葉に詰まり、歯切れ悪く答えた。
「現場に出てるに決まってるだろ!今夜は雨がひどすぎて、救助対応に追われてるんだ。帰れない。お前は大人しく家にいろ。勝手にうろつくな」
「その救助活動って、人の家のベランダを修理すること?」
私が冷ややかに聞き返すと、途端に彼の声が尖った。
「なんだよ、その言い方は?芽衣は30階を超える部屋に一人で住んでるんだぞ。掃き出し窓が割れて、部屋の中まで水浸しなんだ。
彼女は殉職した同僚の妹だ。俺は昔、あいつの兄貴に、一生面倒を見るって約束したんだよ。こんな天気で心臓が止まりそうなくらい怯えてる子を、ちょっと助けに行っただけだろ。それのどこが悪い?お前、なんでそんな冷たい言い方するんだよ?」
私は視線を落とした。鋭いガラスの破片で切り裂かれた自分のふくらはぎが血にまみれ、痛々しく裂けている。
地下駐車場で彼にかけた電話が、芽衣の手で切られた時のことを思い出す。
車内の非常用ハンマーを3度、全力で振り下ろし、ようやく窓を割って、命からがら脱出したのだ。
「……そう。じゃあ、彼女のそばにいてあげて」
私は低い声で告げた。
「皮肉を言うなよ。うちの救助車両はすぐ近くに待機させてあるし、今夜は本当に現場を離れられないんだ。
もう、いちいち焼きもちを焼くのはやめろよ。二十代にもなってるんだから、少しは分別を持て」
透は後ろめたさをごまかすように、そそくさと通話を切った。
店員が救急箱を持ってきて私の前にしゃがみ込み、消毒液で丁寧に傷口を処置してくれる。
綿棒がめくれた皮膚に触れるたび、焼けつくような痛みが走った。
私は歯を食いしばりながら、涙をぽろぽろと毛布の上に落とした。
店員がため息をつく。
「お客さん、この傷、深すぎますよ。病院で縫ってもらわないと。彼氏さんも救助隊の方なんですか?こんな時にそばにいてくれないなんて……」
私は椅子の上で身を丸めた。
5年前、透は土砂崩れの救助中に大怪我を負ったことがある。
肋骨を3本折り、ICUで3日3晩を過ごした。
あの頃、私は救急科の研修医だった。眠る間も惜しんで、彼のベッドのそばに付き添い続けた。
目を覚ました彼は私の手を握り、泣きながら言ったのだ。私に出会えたことが、人生で一番の幸運だと。
それなのに今、彼はたった2キロしか離れていない高層マンションにいながら、私が怪我をしたことにすら気づいていない。
夜が明ける頃、雨足は次第に弱まっていった。
私は立ち上がって毛布を畳み、湿った万円札を丁寧に店員に渡した。
「お釣りはいりません」
「お客さん、多すぎますよ!」
店員が慌てて私を呼び止める。
「毛布も充電も、本当に助かったから」
私は足を引きずりながら、扉を押して外へと歩き出した。
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