友達以上、恋人未満だった私たち第2話
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澪は目を伏せ、胸に広がる苦さをひとりで飲み込んだ。
――そうだ。どうして自分は、こんな自由奔放な男を好きになってしまったのだろう。
「……隼人」気づけば、澪はそう問いかけていた。「瑠奈のことが好きなら……どうして私と、あの30歳の約束をしたの?もし、瑠奈に『自分は誰かを愛せる』、『一人の女性だけを大切にできる』って証明したかっただけなら……私じゃなくてもよかったんじゃないの?」
「澪と約束したときは、まだ瑠奈のことが好きじゃなかったんだ」
それだけ言って、どこか軽い調子で笑う。
「澪は品があるし、しっかりしてる。奥さんにするなら、ピッタリと思ってた。それに、澪は俺の一番の親友だろ。もし瑠奈と一緒になれなかったとしても、澪は俺にとって最高の選択肢だったんだ。
それに、菅野家の会社が潰れたあと、澪にとっても俺以上の選択肢はなかっただろ?」
あまりにも冷静な分析だった。その言葉を聞いた瞬間、澪は息が詰まり、呼吸さえできなくなる。
――そういうことだったのか。自分は最初から、隼人にとっての「一番」ではなかった。愛する相手と結ばれないのなら、その次に選ぶ相手。
ただ、それだけ。
澪は何も言えないまま、隼人のあとをついていった。向かった先は、隼人と瑠奈がこれから暮らす家だ。
玄関に入った瞬間、澪は足を止める。リビングの壁一面に、隼人と瑠奈の写真が飾られていた。
肩を寄せ合う2人。
昨夜のうちに用意したとは思えないほど、部屋は温かな空気に満ちていた。
まるで5年という離れ離れになっていた時間など最初から存在しなかったかのように。
まるで、ずっと昔から夫婦だったかのように。
「澪、来てくれたのね」
2階から、瑠奈が嬉しそうに手を振った。
だが、その姿を見た途端、隼人の表情が変わる。
慌てて階段を上ると、隼人は彼女を抱き上げ、そのままリビングのソファまで運んだ。そして、ごく自然な仕草でスリッパを手に取る。
隼人は瑠奈の前にしゃがみ込み、裸足の足元にそっとそれを履かせた。
「そろそろ生理が来る時期だろ。冷えるから、素足で歩き回るな」
その言葉に、澪の胸が小さく跳ねた。
――もう隼人を愛さない。
そう決めたのに、こんな光景を目の前にすると、やはり胸が痛む。
「俺、コーヒーを淹れてくるよ」
瑠奈を気遣ったあと、隼人はそう言ってキッチンへ向かった。
二人きりになるための時間を、あえて作ってくれたのだろう。
隼人の姿が見えなくなると、澪は先に口を開いた。「瑠奈、私と隼人の間には、恋愛感情がないの。だから、2人が末長く幸せになれるよう、願ってるよ」
だが、瑠奈は鼻で笑った。
「隼人があなたに恋愛感情がないことくらい、私も知ってる。でも、澪。あなたは本当に、隼人のことを何とも思っていないって言えるの?」
隼人がいないこの場では、瑠奈の態度が刺々しかった。
「あなた、隼人のことが好きだったでしょう。大学のとき、酔って眠っていた隼人にキスしてたもの。私、この目で見たんだから!そんなことをしておいて、自分で気持ち悪いと思わないの?」
秘密を暴かれ、澪の瞳が大きく揺れた。思わず指先に力が入り、掌に爪が食い込む。
だが、すぐに痛みが意識を現実へ引き戻した。
「……隼人が好きだったけど、それはもう過去のこと。自分の気持ちを恥じるつもりもない」
一度、息をついた。
「あなたと隼人が両想いだと知った以上、2人の間に割って入るつもりはないよ」
「そう?けど隼人は今でも、あなたのことを一番大切な友達だと思ってる」
瑠奈の笑みが、さらに深くなった。その声には、隠そうともしない悪意が混じっていた。
「私はね、彼のそばに、私以外の大切な女がいるなんて絶対に嫌。だから――あなたのことを思い出すだけで、隼人が嫌悪感を抱くようにしないと」
言い終えた直後、瑠奈は、ためらいもなく自分の頬を強く叩いた。
乾いた音が、リビングに響く。
「澪……ごめんなさい。隼人を奪うつもりなんてなかったの……!」
瑠奈は泣きながら声を上げると、わざと身をよろめかせ、脇にあった花瓶へと倒れ込んだ。
次の瞬間。
――ガシャーン!
大きな音とともに花瓶が床に砕け散る。
瑠奈の身体に、鋭い破片がいくつも傷をつけて、白い肌が赤く染まった。
騒ぎを聞きつけ、すぐに隼人が駆けつけてくる。血を流す瑠奈を見た瞬間、隼人の瞳が大きく見開かれた。
「瑠奈!どうした!」
すぐさま駆け寄ると、隼人は彼女を抱き上げた。
瑠奈はその腕の中に身を縮めながら、赤く腫れた頬をわざと見せつける。「澪に……叩かれたの。それで、よろけて……花瓶にぶつかっちゃって……」
隼人の表情が、一瞬にして険しくなった。「澪。なんで瑠奈に手をあげた?」
鋭い目で、まっすぐ澪を見据える。
弁解を待っているのだ。
澪は目をそらさなかった。「私は彼女に手を上げていない。全部、彼女の芝居だよ」
その言葉を聞き、隼人の視線が瑠奈へと移る。腫れた彼女の頬を、じっと見つめた。
そして、何かを確かめるように、自分の手をその頬に重ねる。
――やはり、そうだ。
誰かが正面から瑠奈の頬を平手で叩いたのなら、指先の跡は顔の外側、つまり耳の方向へ伸びるはずだった。
だが、瑠奈の頬に残っている指の跡は違う。自分で手のひらを頬に当て、指先が上を向くようにして叩いたときに残る跡だった。
隼人は眉をひそめた。これは瑠奈の自作自演だと、もう分かっていた。
それでも、次の瞬間。
「……澪、瑠奈に謝ってくれ」
澪の呼吸が、一拍遅れた。隼人なら、瑠奈の嘘を見破れると信じていた。
一方、隼人の腕の中にいた瑠奈は、ほっと息をついた。そして澪にだけ分かるよう、勝ち誇った視線を向ける。
2人の視線がぶつかった。その瞬間、空気がわずかに張りつめる。
「ふっ」
不意に、澪が笑った。
「いいよ」
その直後、澪はゆっくりと瑠奈に歩み寄った。そして、誰も反応できないほどの速さで、瑠奈の無傷だった左頬を思い切り叩いた。
「あ……ごめんね。手が滑っちゃった」
頬を押さえて固まる瑠奈を、澪は淡々と見下ろした。それから視線を隼人へ向ける。
その声は静かだった。けれど、ひどく冷たくて鋭い。「謝ったけど。これで満足?」
返事を待つことなく、澪は背を向けた。
その背後で、瑠奈の泣き声がさらに大きくなる。
「澪!さすがにやりすぎだろ!」隼人の苛立った声も聞こえた。
けれど、澪は振り返らなかった。
瑠奈の手当てを終えた隼人が澪を見つけたのは、菅野家の旧邸だった。
澪は黙々と家具を拭いていた。
隼人の姿を見つけると、澪のほうから口を開く。
「今度は何?また瑠奈に謝罪してほしいの?」
そして、鼻で笑った。
「隼人。あなた、18歳の頃からいろんな女の人と遊んできたんでしょ。瑠奈のあんなお粗末な芝居、見抜けなかったなんて言わせない」
「もちろん見抜けていたよ」
しばらく沈黙したあと、隼人はようやく口を開いた。
「でも、瑠奈があんなふうにヤキモチを焼いてくれたのは、初めてだったんだ」
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