友達以上、恋人未満だった私たち第1話
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菅野澪(すがの みお)には、加賀隼人(かが はやと)という幼なじみがいる。自由奔放で、恋愛にもどこか不真面目なところがある隼人は、澪とこういう約束を交わした。
――30歳になっても、お互いが独り身だったら結婚しよう。
小さい頃から、澪がずっと隼人に密かな想いを寄せていたが、彼は知る由もない。だから、あの約束を交わした時も、隼人はいつものように軽口を叩く調子で笑っていた。
「そんなに心配しなくていいって。結婚なんて、ただの形だ。そのあとも、お互い好きに遊んでればいい」
ところが、澪が25歳のとき、菅野家の会社が倒産した。
債権者から、身を売ってでも借金を返せと迫られ、追い詰められていた澪を救ったのは、隼人だった。家族の反対を押し切り、彼は5年早く、あの約束を果たした。
それから5年。澪のために、隼人は遊び歩くことをやめた。彼女を大切にし、周囲から羨まれるほど愛情深く接してくれた。
そして――2人が30歳を迎えた。
澪は長年胸に秘めてきた想いを、今度こそ隼人に伝えようと決意する。
しかしその矢先、彼女は信じがたい光景を目にした。
同窓会の帰り、本来なら迎えに来てくれるはずだった隼人が、大学時代のルームメイト・松永瑠奈(まつなが るな)を抱きしめ、我を忘れたように口づけていた。
「誰かを愛するのって、どういうことなのか……ようやく分かったんだ。だから……もう一度、俺のそばに戻ってきてくれないか?」
* * *
隼人の腕の中にいる瑠奈の表情は見えない。ただ、彼女がすすり泣く声だけが聞こえていた。
「でも……澪はどうするの?私、澪を傷つけたくない……」
「そんなの考えなくていい。あいつは、俺が誰かを大事にするための実験台みたいなもんだ。本当に愛してるわけじゃない。
あの時、お前が何も言わずに姿を消したから――もう二度と、お前と一緒にはいられないんだと思った。だから澪と付き合った。
瑠奈。お前さえ戻ってきてくれるなら、俺はいつだって澪と別れられる」
その言葉が、澪の胸を深く切り裂いた。
隼人が昔から自由奔放な人間だったことは、澪が誰よりもよく知っていた。だからこそ、ずっと彼に想いを寄せながらも、その気持ちを口にすることはできなかった。
せめて友人として、ずっとそばにいられればいい。
そう思っていた。
かつて隼人が何気なく口にした30歳の約束だって、本気にしたことなど一度もなかった。
それでも、菅野家の会社が倒産したとき、追い詰められていた澪に手を差し伸べ、あの約束を5年も早く果たしたのは、隼人だった。
だから澪は信じてしまった。
長年、胸の奥に隠し続けてきた恋が――ようやく叶ったのだと。
けれど、それは大きな間違いだった。
彼女が叶ったと信じていた恋は、隼人が本当に愛する女に自分の想いを証明するための、ただの手段にすぎなかった。
隼人は澪を利用した。自分が遊びをやめ、たった一人だけを愛する男になれるのだと――瑠奈に証明するために。
その瞬間、澪は悟った。
この世に、自分ほど滑稽な女はいないのだと。
「だめだよ、隼人。澪はあなたのことが好きなんだもの。彼女と別れたら、私だって罪悪感を感じてしまう」
隼人の思いを受け止めようとせず、瑠奈は突然、彼の胸を突き放した。「やっぱり、私じゃあなたにはふさわしくない。隼人と澪こそお似合いだもの」
その声には、どこか苦しげな響きがあった。
「何言ってるんだよ、瑠奈。俺が愛してるのは、お前だけだ」
隼人がそう言った瞬間――瑠奈の身体がぴたりと強張った。彼女の視線が、ふいに隼人の向こうへ向く。
その先には、澪がいた。
「……澪?」瑠奈は顔色を変えた。「誤解しないで……隼人は酔ってて、私をあなたと間違えてるだけなの」
慌てたように取り繕う声は、わずかに震えていた。
隼人も瑠奈の視線を追い、その先に立つ澪を見た。
目が合った瞬間、彼の表情がわずかに強張る。そこには、隠しきれない戸惑いと、ほんの少しの後ろめたさが浮かんでいた。
だが、すぐに隼人の表情は変わった。
――先ほど自分が口にしたことは、何一つ間違っていない。
きちんと澪に説明すれば、瑠奈も余計な罪悪感を抱かずに済む。そして瑠奈は、自分のもとへ戻ってくれるかもしれない。
そう考えると、隼人は堂々と澪を見つめた。
「澪、聞いてたならちょうどいい。瑠奈に説明してくれ。俺たちは最初から――」
「澪!」
隼人の言葉を遮ったのは、瑠奈だった。
「私、あなたを傷つけるつもりなんてなかったの。わざとこのタイミングで帰国したわけでもないし、隼人とよりをもどすつもりもない。私はただ……」
言葉を続けながら、瑠奈はひどく取り乱しているように見えた。まるで、澪に責められることを恐れているかのように。
「とにかく……もう二度と隼人の前には現れないから」
それだけを言い残すと、瑠奈は逃げるようにその場を去っていった。
残されたのは、呆然とする隼人と、まだ現実を受け止めきれずにいる澪だけだった。
隼人は澪の前まで歩み寄る。その身体から放たれる圧迫感に、澪は思わず息を呑んだ。
「……まさか、瑠奈が海外へ行ったのは、お前が何か言っていたから?そうなのか?」
澪は、隼人の瞳に宿る冷たい光を見た。喉の奥が、ひどく乾く。
これまで、隼人と瑠奈が付き合っていたことさえ知らなかった。ただ以前、瑠奈から隼人のことについて尋ねられたことがある。
――隼人は今まで何人くらいの彼女がいたのか。
澪は、その問いに正直に答えただけだった。
隼人の恋人は数え切れないほど多かった。それは変えようのない事実だ。
けれどその後、瑠奈は海外へ渡ってしまった。
そして今になって、澪は初めて知った。
――2人は、かつて恋人同士だったのだと。
けれど、そんなことはもうどうでもよかった……
隼人は澪の返事を待とうともせず、瑠奈のあとを追うように、その場を飛び出していく。
澪は遠ざかっていく彼の背中を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
スマホを取り出し、電話を2本かけた。
1本目は、加賀グループの人事担当に退職の旨を伝えるため。
もう1本は、恩師から以前受けていた仕事の誘いに返事をするため。澪は川南市へ向かい、教鞭を執ることを決めた。
すべてを済ませると、澪は一人で家へ戻った。そしてその夜のうちに、荷物をすべて片づけた。
翌朝。
荷物をまとめ、タクシーを呼ぼうとしたところで、隼人が帰ってきた。
床に並んだいくつものバッグとスーツケースを目にし、彼は一瞬だけ足を止める。「もう片づけなくていい。この家は澪にやるよ」
そう言うと、隼人は眉間を押さえ、疲れたように息を吐いた。「俺たち、離婚しよう」
「そんな必要はないよ」澪は静かに答えた。「だって私たち、最初から籍を入れてないでしょ?」
「……え?」
あまりにも信じられないという顔をする隼人を見て、澪は苦笑した。
――隼人は、結婚したつもりでいたのだろう。
彼が澪と結婚すると言ったのは、あくまでも口約束だった。
この5年間、澪は何度も婚姻届を出そうと持ちかけた。そのたびに隼人は、何かと理由をつけて先延ばしにしてきた。
「まあ、今さら面倒な手続きがなくて、むしろよかったじゃない」
隼人はそれ以上気にする様子もなく、手にしていたブリーフケースを差し出した。「これ、受け取ってくれ。別れた後でも、困ったことがあったら、俺が守るよ」
真剣な口調だった。
その言葉を聞いた瞬間、澪の脳裏に5年前のことがよみがえる。
菅野家の会社が倒産したあと、澪は債権者から執拗に追い詰められた。
それだけではない。事情を知った同業界の御曹司たちまで、弱みにつけ込むように澪へ近づいてきた。断っても断っても、品のない誘いが後を絶たなかった。
そんな彼らを追い払ったのが隼人だった。そして彼は、みんなに言い放ったのだ。
――澪は俺がもらう。誰にも手出しはさせない。
だからこそ澪は信じた。
結婚式はない。婚姻届も出していない。それでも隼人と一緒にいられるなら、それでいいのだと。
自分の想いを飲み込み、プライドさえ捨てて、彼のそばで5年を過ごしてきた。
けれど――そんな関係も、今日で終わる。
澪は自嘲するように笑い、ブリーフケースを受け取り、中身を確認する。
キャッシュカードに、車のキーといくつもの不動産の権利書。そして、加賀グループの株式譲渡契約書まで入っていた。
澪は笑いそうになる。
――隼人は、自分の財産の半分ほどを差し出している。本当に大盤振る舞いだ。
「これって……私のことも、今までの女たちと同じように、お金で片付けようとしているの?」
澪は中身を取り出し、隼人を見つめた。
隼人はすぐには答えなかった。澪の表情に傷ついたようなものを見て取ったのだろう。しかし、何をどう説明すればいいのか、彼自身にも分からないようだった。
確かに、隼人はこれまで付き合ってきた女性にも金を惜しまなかった。だが、ここまでのものを渡したことは一度もない。
澪だから、渡すのだ。
しばらくの沈黙のあと、隼人はかすれた声で言った。
「……澪は彼女たちと違って、俺にとって一番大切な友達だから。
俺たちの世界なんて、こんなもんだろ?一度関係を持ったからって、何かが変わるわけじゃない。そうだろ?」
澪の顔が少し青ざめていることに気づき、隼人は不安そうに喉を動かした。「……澪」
一瞬、言葉を選ぶ。
「俺たち、これからも友達だよな?」
澪は、かすかに口元をゆるめた。
――もう、友達には戻れない。
彼女はその言葉を口に出さず、静かに飲み込んだ。
人事部からは、退職手続きは早くても1週間ほどかかると言われている。
1週間後には、澪は隼人の会社を辞め、彼のそばから離れる。
「……私たちが友達のままでいたら、瑠奈は気になると思うけど」
澪は話を変えた。
隼人は、ようやく表情を緩めた。
「大丈夫。昨日、瑠奈とちゃんと話した。当時のことも、もう誤解は解けたよ。澪のせいじゃない。俺が今まで付き合ってきた女が多すぎて、瑠奈を不安にさせただけだ。瑠奈も、俺ともう一度やり直すって言ってくれた。ただ……1つだけ、澪に頼みたいことがある」
澪が首を傾げると、隼人は困ったように笑った。
「瑠奈がさ……澪は俺のことが好きなんじゃないかって、ずっと言うんだ。俺たちの間に何もないって、自分で確かめるまでは、安心して俺と結婚できないらしい。
だから、澪。説明してやってくれないか?俺たち、本当に何もないし、澪が俺のことが好きなわけないだろ?」
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