初恋は白く、傷痕は紅く第3話
この話は約1167字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
『妊娠したの、怜の子よ』
短いその言葉は、鋭い矢のように千尋の胸を貫いた。
彼女はスマホを閉じ、それをポケットにしまうと、こちらに戻ってくる怜を無言で見つめた。
喉に綿でも詰まったかのように言葉が出てこない。
怜の顔には罪悪感とわずかな苛立ちが浮かんでいた。「千尋、先に戻ろう。会社のことで急用ができたんだ。今度またちゃんと時間作るからさ、な?」
本当に会社の用事なのか。それとも、晴美が寂しがっているのだろうか。
千尋は問い詰めたかった。だが、その言葉は喉元で凍りついたまま出てこなかった。
ただ静かに頷き、内心では皮肉を含んだ笑みを浮かべていた。
あの結婚式で、「一生千尋だけを愛す」と誓った男は、もうどこにもいなかった。
もしも六年前の怜が今の怜を見たら、どうするだろう。
拳を振るうのか、それとも晴美をもう二度と手放すなと背中を押すのか。
怜は言い訳を用意していたに違いない。だが、それを口にする暇もなかった。
素直に頷いた千尋を見て、怜の胸には言いようのない不安が広がった。
まつ毛に涙を宿す千尋を見て、怜は慌てたように声を上げた。「千尋、どうしたの?誰かに何か言われた?」
千尋は何も言わなかった。自分で口を開けば、浮気の理由を問い詰めてしまいそうで、それがもう意味のないことだとわかっていた。
静かに首を横に振り、冷たく言った。「ううん、何も」
その反応を、怜は自分の約束を守れなかったことへの怒りだと誤解した。
彼は千尋の腰に腕を回し、甘えるように耳元で囁いた。「ごめん、千尋。今日は本当に予想外だったんだ。君の誕生日には、絶対に特別なサプライズを用意するよ。楽しみにしてて」
千尋が返事をする間もなく、怜のスマホが再び鳴った。
内容は見えなかったが、彼の呼吸が乱れるのを千尋は感じ取った。
怜はもう千尋の表情すら気にせず、彼女の手を引いて車に戻ると、自宅まで送り届けた。
「今夜は先に寝ててね。ソファで待ったらだめだよ。君が疲れちゃうと、俺、すごく心配になるから」
別荘が見える場所で車を停めると、怜は「じゃあね」とだけ言って車を飛ばしていった。
千尋は無言でその車を見送り、一台のタクシーを止めて運転手に言った。「さっきの車、追ってください」
タクシーは路地を曲がりながら怜の車を追いかけ、やがて一軒の一戸建の前で止まる。
怜が慣れた手つきでドアを開け、待っていた晴美と抱き合う姿を、千尋はただ黙って見つめていた。
長い時間をかけてタクシーで帰宅し、家に入った千尋は、壁に並ぶ写真をしばらく見つめていた。
その全てを外し、怜が六年間撮りためたアルバムと一緒に暖炉に放り込んだ。
火は瞬く間にそれらを焼き尽くし、やがて灰だけが残った。
その夜、千尋は一睡もできなかった。
目を閉じれば、昼間のあの光景が何度も浮かんできた。
——あと29日。
あと29日で、千尋は怜と永遠に別れる。
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