初恋は白く、傷痕は紅く第1話
この話は約2201字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
「千尋(ちひろ)、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度諦めたことがあったけど、もう二度と逃してほしくないのよ。しっかり考えてから返事をちょうだいね」
薄暗いリビングのソファに座り、離婚届を指でそっとなぞりながら、相原千尋(あいはら ちひろ)の決意は固まった。
「先生、もう決めました。おっしゃる通りです。このチャンスを無駄にはできません。ただ、少しだけ片付けなければならないことがあるので、一か月後にヴェルナへ行かせてください」
「そうね、あなたがそう決めたのなら安心だわ」
スマホの画面がゆっくりと消え、真っ暗になった部屋の中で千尋はぼんやりと虚空を見つめていた。その静寂を破ったのは、玄関の扉を開ける音だった。
「千尋?なんで電気もつけずにいるんだ。暗い中でスマホを見ると目に悪いぞ。それにこんな時間まで起きてなくていい、先に寝てろって言ったろ?」
帰宅した江藤怜(えとう れい)は千尋の額に軽くキスを落とし、そのまま抱き寄せて二階の寝室へ向かう。
「まったく、あいつらは俺が早く家に帰りたいって言ってるのに、毎晩毎晩飲み会だのカラオケだのって引っ張りまわしてさ」
「ただ歌ってるだけなら……別にいいけど」
千尋は怜の横顔を見つめながら視線を下げていき、彼の顎の下に残されていた薄いキスマークをじっと見ていた。
彼女の唇が皮肉げに歪み、自嘲気味な笑いが漏れた。
怜が本当に友人たちと飲み歩いているのか、それとも、実際には星野晴美(ほしの はるみ)のそばにいるのだろうか?
* * *
「千尋、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度諦めたことがあったけど、もう二度と逃してほしくないのよ。しっかり考えてから返事をちょうだいね」
薄暗いリビングのソファに座り、離婚届を指でそっとなぞりながら、相原千尋(あいはら ちひろ)の決意は固まった。
「先生、もう決めました。おっしゃる通りです。このチャンスを無駄にはできません。ただ、少しだけ片付けなければならないことがあるので、一か月後にヴェルナへ行かせてください」
「そうね、あなたがそう決めたのなら安心だわ」
スマホの画面がゆっくりと消え、真っ暗になった部屋の中で千尋はぼんやりと虚空を見つめていた。その静寂を破ったのは、玄関の扉を開ける音だった。
「千尋?なんで電気もつけずにいるんだ。暗い中でスマホを見ると目に悪いぞ。それにこんな時間まで起きてなくていい、先に寝てろって言ったろ?」
帰宅した江藤怜(えとう れい)は千尋の額に軽くキスを落とし、そのまま抱き寄せて二階の寝室へ向かう。
「まったく、あいつらは俺が早く家に帰りたいって言ってるのに、毎晩毎晩飲み会だのカラオケだのって引っ張りまわしてさ」
「ただ歌ってるだけなら……別にいいけど」
千尋は怜の横顔を見つめながら視線を下げていき、彼の顎の下に残されていた薄いキスマークをじっと見ていた。
彼女の唇が皮肉げに歪み、自嘲気味な笑いが漏れた。
怜が本当に友人たちと飲み歩いているのか、それとも、実際には星野晴美(ほしの はるみ)のそばにいるのだろうか?
星野晴美――怜の忘れられない初恋の人。かつて怜と晴美が婚約するという噂は、この界隈では誰もが知っていることだった。しかし晴美が海外へ留学したため、その話は立ち消えとなった。
落ち込んだ怜は癒しを求め、彼に片思いをしていた千尋との電撃結婚を決めた。以来、六年の月日が流れた。
あの日の結婚式を千尋は鮮明に覚えている。タキシード姿の怜がひざまずき、自分がデザインした指輪を差し出した。
「千尋、愛してる。俺は一生、君だけを愛する。俺の心にまだ晴美がいると思っているかもしれないけど、大丈夫だ。この先の人生で必ず証明する。俺の心には相原千尋しかいないってな。結婚してくれないか?」
その言葉は決して嘘ではなかった。
結婚してからの六年間、怜は本当に千尋だけを愛していた。彼女が不安にならないよう、女性がいる飲み会には一切参加しなかった。記念日やイベントごとには必ず彼女が喜ぶサプライズを用意し、毎朝二人の写真を撮り、老後に振り返る楽しみにしていた。
――三か月前に晴美が帰国するまでは。
晴美の帰国を千尋も承知していた。怜が彼女を手伝いに行くのも千尋自身が認めたことだった。
だが次第に怜の様子がおかしくなり、帰宅が遅れる日が増えていった。
二か月前、結婚六周年の記念日。
「千尋、会社で大きなプロジェクトがあるから、終わったら改めて祝おう」
しかしその日、晴美のSNSにアップされた写真を見て千尋は初めて眠れない夜を過ごした。そこに写る指の小さなほくろは、間違いなく怜のものだった。
一か月前のバレンタインデー。
「特大の花火をあげるよ。帝都中に俺が千尋を愛してると知らせるんだ」
だが花火を見ている途中、怜は電話一本でまた去った。
その夜、晴美から怜とベッドで過ごした写真が千尋に送られてきた。
『私が帰ったのよ。いつまで江藤怜の妻でいるつもり?』
怜が言う「仕事」や「トラブル」は、いつも晴美に会いに行くための口実だった。
晴美がいない間は、自分を騙せた。だが晴美が戻ってきた今、もう自分を騙すことはできない。
千尋は美しい夢から目を覚ましたのだ。
手放すことを恐れない。もう怜はいらない――
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