凪いだ夜に、君はもういない第3話
この話は約1490字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
「何か話があるなら、もっと穏やかに言えないのか?」
慧の声が一段と高くなる。
「湊がいくつだと思ってる。そんな大声で怒鳴る必要はないだろう」
真尋は信じられない思いで彼を振り返った。
目の前の父子の姿が、ひどく見知らぬものに思える。
心に辛いものが込み上げてきたが、真尋はそれでも平静を装い、ケーキを指差した。
「数ヶ月前、湊がヨーグルトをちょっと飲んだだけで病院に運ばれたこと、先生に何て言われたか忘れたの?」
慧の顔色が変わった。
何かを思い出したようだったが、結局何も言わなかった。
詩織はそれを見て、慌てて場を収めようとする。
「真尋さん、子供って甘いものが好きだものね。これくらいなら、大丈夫じゃないかしら……」
真尋は怒りのあまり笑ってしまった。
「月島詩織、あなたは人の話が理解できないの?」
慧は再び眉をひそめた。
「真尋、言葉に気をつけろ。たかがケーキ一つじゃないか。湊が食べたがってるなら少し食べさせてやれ。何をそんなに大げさに騒ぐ。それに、現に何ともないんだろう。大袈裟なんだよ」
彼は一呼吸おいて、さらに厳しい口調で続けた。
「詩織に謝れ」
真尋は唇を固く噛みしめ、目に込み上げてくる涙を無理やり押し殺した。
こんな場面になることは予想していた。
それでも、心は耐え難いほどに冷えていく。
「慧」
彼女の声は掠れ、わずかに震えていた。
「もう、あなたの好きにすればいいわ」
涙がこぼれ落ちる前に、真尋は背を向け、この息が詰まるような家から逃げ出した。
この世界に、もはや彼女を惹きつけるものはない。
この二つの執着も、消え去ろうとしていた。
真尋は車を走らせ、あてもなく街をさまよった。
音楽のボリュームを最大にする。
耳をつんざくようなドラムの音が、心に渦巻く痛みをわずかに紛らわしてくれるようだった。
どれくらい経っただろうか。
突然、スマートフォンの着信音が音楽の喧騒を突き破った。
真尋は通話ボタンを押す。
「奥様、大変です!坊っちゃまが……」
吉川さんの泣きじゃくる声が途切れ途切れに聞こえてきた。
真尋の頭の中で何かが切れる音がした。
彼女は急ブレーキを踏み、甲高いブレーキ音が夜空を切り裂いた。
湊は自分の体の一部だ。
どんなに聞き分けがなくても、母と子の絆は変わらない。
彼女はハンドルを乱暴に切り、車を路肩に乗り捨てると、よろめきながら病院へと駆け込んだ。
真尋は自分に冷静になるよう言い聞かせた。
鼻をつく消毒液の匂いが、胃のむかつきを誘う。
運転手の高橋さんと吉川さんが救急処置室の前で、焦燥に駆られて行ったり来たりしていた。
顔は涙で濡れている。
「湊は?」
真尋の声は、自分のものではないほど掠れていた。
吉川さんは彼女を見ると、すぐに駆け寄り、泣き声で言った。
「奥様、坊っちゃまが夜中に息ができなくなって……アナフィラキシーショックだと。今もまだ、先生方が……」
真尋は目の前が真っ暗になり、壁に手をついてかろうじて立っているのがやっとだった。
「慧は?」
と彼女は尋ねた。
吉川さんは高橋さんと視線を交わし、ためらいがちに答えた。
「旦那様は……月島様と外出されて。どこか、バーのような場所に……」
「電話はしたの?」
真尋の声はひどく震えていた。
「かけました。でも……繋がりませんでした」
吉川さんは恐る恐る彼女の顔色を窺う。
「奥様、もう一度かけてみますか?」
彼女は慧の番号をダイヤルした。
二度、三度、十度とリダイヤルするが、誰も出ない。
真尋の心は、完全に冷え切った。
処置室の赤いランプが、目を開けていられないほど眩しい。
もし、私がもっと早く止めていれば。
もし、私が家を出なければ。
もし……
だが、この世界に「もしも」は存在しない。
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