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凪いだ夜に、君はもういない第1話

この話は約1846字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

桐嶋慧(きりしま めぐみ)を十年愛し続けた浅野真尋(あさの まひろ)は、ふと、すべてに疲れ果ててしまった。

だから彼女は、夫と息子をあの女に明け渡し、元の世界へ帰ることを選んだ。

そこで、新しい人生を始めるはずだった。

しかし、彼女を失った慧は狂気に陥り、あろうことか息子を連れて彼女の世界まで追いかけてくる。

けれど、もう遅い。

一度手放した愛は、二度と戻らないのだから。

* * *

【宿主様、当世界における生命維持期間が間もなく満了します】

【延長を希望しますか?】

機械的なシステム音が、浅野真尋(あさの まひろ)の脳内に響いた。

感情の起伏は一切ない。

真尋は手にしていたコーヒーカップを置き、その縁を指先でそっと撫でた。

長い沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開く。

「いいえ、結構」

【宿主様、帰還プログラムを起動した場合、あなたはこの世界で死亡します】

【再度確認してください】

真尋は静かに微笑んだ。

「ええ、お願い」

【宿主様の指示を確認しました】

【重要人物との別れのため、十五日間の猶予が与えられます】

システムはそれだけ告げると消えた。

彼女はスマートフォンを手に取り、習慣のように月島詩織(つきしま しおり)のSNSを開いた。

写真は空港のガラス窓に映ったもの。

詩織が桐嶋慧(きりしま めぐみ)の肩に寄りかかり、慧は彼女の腰を両手で強く抱きしめ、口元に笑みを浮かべている。

その笑みが、真尋の目を容赦なく刺した。

胸が締め付けられ、窒息しそうなほどの圧迫感。

涙が膜のように瞳を覆っていく。

慧、あんなに彼女を愛しているのね。

それなら、どうして私を弄んだの?

真尋はグラスを取り、水を一気に呷った。

冷たい水が喉を滑り落ちていくが、心の奥で燃え盛る苦さを消し去ることはできない。

壁の時計は十二時を指している。

しかし慧はまだ帰ってこない。

テーブルに並べられた手料理は、とうに冷え切っていた。

真尋は涙を必死に堪え、立ち上がった。

「もう、片付けて」

家政婦の吉川(よしかわ)さんがため息をつきながら口を開いた。

「旦那様をもう少しお待ちになっては……」

もう待たない。

引き止められないものに、もう未練はなかった。

真尋は重い足取りで寝室へ戻った。

椅子に腰掛ける間もなく。

バンッ――

部屋のドアが乱暴に開け放たれ、桐嶋湊(きりしま みなと)の小さな姿が入口に現れた。

「ママ、パパは詩織おばちゃんを迎えに行ったの?」

真尋の心臓が鉛のように沈む。

彼女は懸命に涙を押し殺した。

「そんなことないわ。湊、いい子だから、お部屋に戻って寝なさい」

「嘘だ!詩織おばちゃんは今日帰ってくるんだもん!パパ、空港まで迎えに行くって約束したんだ!」

湊の小さな顔がくしゃくしゃに歪み、わっと泣き出した。

真尋は唇をきつく結び、湊のそばにしゃがみ込むと、その頬を優しく撫でた。

「もう遅い時間よ。パパはもうすぐ帰ってくる」

しかし湊は聞き入れず、床に寝転がって手足をばたつかせ、大声で泣き叫んだ。

「いやだ!詩織おばちゃんがいい!おもちゃ買ってきてくれるって言ったんだ!」

息子がしゃくりあげて泣く姿に、真尋の心はさらに冷え込んでいく。

今になって、ようやく理解した。

もっとずっと前から、自分の息子は詩織と数え切れないほど会っていたのだ。

この家は、最初から本当の意味で彼女の居場所などなかったのだ。

真尋は目を閉じ、深く息を吸い込んで涙を無理やり押し戻した。

再び目を開けた時、彼女の眼差しは氷のように冷徹な光を宿していた。

「じゃあ、まずはお着替えなさい。高橋さんに送ってもらうから」

湊の泣き声がぴたりと止み、興奮した様子で床から這い上がると、ドアを荒々しく閉めて出ていった。

ほどなくして、湊はもう服を着替えていた。

真尋の部屋の前を通り過ぎる時、彼は小さな頭を上げて、舌足らずな声で言った。

「ママって、どうしていつもそんなに暗い顔してるの?だからパパに好かれないんだよ。詩織おばちゃんならそんなことないもん。いつもニコニコしてる。パパも詩織おばちゃんが好きだし、僕も好き」

階段の踊り場まで来ると、湊は不意に立ち止まり、真尋を振り返った。

その目には、どこか憐れみの色が浮かんでいた。

「あの人が僕のママだったらよかったのに」

真尋は息を呑んだ。

その言葉を言い終えると、湊は満足したように走り去っていった。

子供の無邪気な笑い声が、がらんとした家の中に響き渡り、ひどく耳障りだった。

真尋は力なく壁に寄りかかった。

心が無数の針で刺されたように、ちくちくと痛む。

十年。

それは、なんと滑稽な笑い話だったのだろう。

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