八十八回目の婚礼キャンセルのあとで第1話
この話は約2604字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
八十八回目の結婚式がまた中止になったその夜、私はビジネスパートナーに電話をかけた。
「H国のプロジェクト、私、行くわ」
受話器越しに驚いた声が響く。
「本気か?H国に行くと十年戻れないんだぞ。今日結婚したばかりで、もう別居って……彼、納得してるのか?それにご両親、君の一番の願いって、家族のそばにいることだったろ?」
誰もいない真っ暗なチャペルを見渡して、私は苦笑いするしかなかった。
「結婚式、また無くなったし、夫なんてもういないよ。親なら、美結さえいれば十分でしょ」
数秒の沈黙のあと、彼はため息まじりに言った。
「……わかった。じゃあ、明日出発できるように準備しておいて」
電話を切り、私は身にまとったままのウェディングドレスをそっと撫でた。
最後の涙が、静かに落ちていく。
今日もまた、義妹の美結が「鬱だ」って騒いで自殺未遂を起こした。
悠真はためらいなく、私たちの結婚式をキャンセルした。
力が抜けて、絶望しきったまま、私は彼を見つめた。
「……これで八十八回目だよ」
悠真はうつむいて、申し訳なさそうに私をなだめる。
「もう少しだけ時間をくれないかな、紬……あの事故以来、美結のメンタルが本当に不安定で、俺、彼女がまた何かしないか心配なんだ。
大丈夫、今度こそちゃんと話すから。全部解決したら、すぐに結婚しよう」
親もすぐに悠真をせかす。
「紬、悠真を早く行かせろ。当時、お前を助けるために美結はあんな目に遭ったのに、今さら悠真を止めるなんて、お前は妹を死なせたいのか?」
「どうしてそんなに自分勝手なの?自分の結婚式より、妹の命のほうが大切じゃないの?」
こんな言葉、何度聞かされたんだろう。
以前は何とか言い返そうとしていたけど、もう無理だった。
――私の婚約者も親も、私のことなんて大切にしていない。信じてもいない。
だったら、もう私が消えるしかないよね。
* * *
また天宮美結(あまみや みゆ)から「遺書みたいな電話」がかかってきた。一条悠真(いちじょう ゆうま)は一切迷わず、私たちの結婚式をまたストップさせた。
純白で高価なウェディングドレスの裾を握りしめて、私は顔色も悪いまま彼の前に立ちふさがる。
「せめて、式が終わるまで待てないの?これ、八十八回目なんだよ」
目頭がじんじん熱くなる。
悠真は深くため息をついて、申し訳なさそうに私を抱きしめた。
「もうちょっとだけ、待っててくれないか。紬、お前も知ってるだろ、あの事故以来、美結の心がずっと不安定で……俺、本当に彼女が何かしでかさないか怖いんだ。
大丈夫。今回はちゃんと話すから。それが終わったらすぐ、式をやろう」
――この言葉、八十八回も聞いた。
最初の八十七回は、私もバカみたいに信じて、何度も自分に言い聞かせてきた。「悠真が好きでいてくれるなら、式が延びたっていい」って。
だけど毎回、式はキャンセルされるし、先延ばしになるばかり。
実際、八十回も式をやったのに、神父の前に立てたことは一度もなかった。
美結は、いつだって完璧なタイミングで何かしら起こしてくる。
事故を起こしたり、突然「鬱だ」って騒いだり、自殺未遂したり。
そのたびに悠真は、必ず一番に彼女のもとへ駆けつけて、なぜか毎回彼女の「死にたい」気持ちを落ち着かせて帰ってくる。
……おかしいよね?
リストカットして、睡眠薬を飲んで、叫びながら死のうとする女の子が、私の未婚夫が来た途端に正気に戻るんだよ。生きる気力が一気に戻るんだ。
私はもう何も言えなくなって、せめてもの願いを込めて、必死で彼を抱きしめた。せめて、今だけでも傍にいてほしかった。
悠真はまだ私をなだめていたけど、母が我慢できずに急かし始める。
「紬、もうやめろ。悠真を早く行かせて。美結、もうベランダに登ってるのよ!」
父は険しい顔で私を睨んだ。
「何をまたごねてるんだ。あの時、お前を助けるために美結はあんな目に遭ったんだぞ。普段お前が自分勝手なのはまだしも、今は妹が命の危機だ、少しは空気を読め」
スマホがまた鳴った。悠真は私の手を離すのが名残惜しそうだった。
「紬、俺は行かなきゃ。お前も許してくれるよな?」
私は返事をする間もなく、ヒールがぐらついて転んだ。
腕が花台の金属装飾にぶつかり、思いきり切れてしまった。
刺すような痛みが全身を走る。思わず声が漏れる。
でも悠真は、その痛みには気付かず、振り返りもせず玄関に駆け出していった。
消えかける後ろ姿に向かって、私は崩れるように叫んだ。
「悠真!私はここで今日が終わるまで待ってるから。もし帰ってこなかったら、もう結婚なんてしなくていいよ!」
彼の足が一瞬だけ止まった。でも、やっぱり振り返ることはなかった。
両親も早足で玄関に向かい、私の横を通り過ぎるとき、父は冷たい声で吐き捨てる。
「そんなみっともない格好、誰に見せたいんだ。紬、ただの式中止で文句を言うな。いっそ悠真も妹に譲ってやれ。それぐらい妹の命のほうが大事だ」
母も複雑な表情でこっちを見た。
「紬、わかってね。式なんてまたできるけど、今は悠真に妹を助けに行ってもらわないと。普段なら好きなだけ妹と張り合ってもいいけど、今はそんな余裕ないの」
こんな言葉、家に戻ってから何度も何度も聞かされた。
私がこの家に連れ戻されたときには、美結はすでに十五年も、天宮家で養女として暮らしていた。
私は一度も「出て行け」なんて言わなかったし、彼女のことも家族だと思っていた。
でも彼女は、私の好きなものなら何でも欲しがった。
嫌いだったはずのテディベアも、着ない赤いワンピースも、私が大事にしていると知ると必ず奪いにくる。
「どうして?」って、何度も美結に聞いた。
あの子はにこっと笑って言ったんだ。
「別に理由なんてないよ。お姉ちゃんが絶望する顔を見るのが好きなの」
その時はあまりにもショックで、正直、両親に全部話したらきっと信じてくれると思っていた。
でも私は甘かった。美結の策略も、彼女が両親に与える影響も、全然わかっていなかった。
返ってきたのは、冷たい叱責だけ。
「紬、どうしてそんなに嘘つきで自分勝手なんだ?本当にガッカリだよ」
……もう、ガッカリされたってかまわない。
私は本当に、心の底から疲れてしまった。
涙も出なくて、ただただ全身が冷たく、感覚も麻痺していく。
床に手をついて立ち上がり、血が止まらない傷をぐしゃっとティッシュで押さえた。
「父さん、母さん、美結の様子見てきてあげて。あの子、まだ屋上にいるから」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)