全てを失った私への富豪の愛第2話
この話は約1965字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
藤堂直哉(とうどう なおや)の弁護士を連れて病室に戻ると、そこには、神谷家の人間たちは楽しげに病室で夕食を取っている。
優花が、気遣うような仕草で恒一にスープを飲ませていた。
恒一は、それを当然のように受け入れている。
静子は優花の手を握り、何度も「いい子よね」と頷いていた。
「優花……あなたがいなかったら、澪は本当に危なかったわ」
「そんなことないですよ。
澪のことを看病するのは、当たり前ですから」
「それに比べて……何の役にも立たないくせに、性根が腐ってる人もいるしね」
その言葉は、私に向けて放たれたものだった。
私は、何も感じなかった。
ただ黙って、一通の書類を恒一の横のテーブルに置く。
「恒一、これに署名して」
恒一は書類に目を落とし、それからゆっくり私を見る。
離婚協議書。
彼の眉間に、はっきりと皺が寄った。
「知里……今度は何を企んでる?」
「あなたが望んでたことよ」私は静かに答える。
「澪には、誰かがつきっきりで世話をする必要がある。優花のほうが、私より向いてる。
だから、身を引くだけ」
優花の顔が一瞬で強張り、慌てて立ち上がった。
「知里、誤解しないで。私と恒一は、本当に何もないから。
こんな形で、恒一の気持ちを試す必要なんてないよ」
私は彼女を見なかった。恒一だけを見ている。
「署名して。
あなたにとっても、私にとっても、そのほうが楽よ」
次のとき、静子が勢いよく立ち上がった。
「離婚?冗談じゃないわ!
澪をあんな目に遭わせておいて、逃げる気?
神谷家は何も悪いことなんてしてない!あんたに渡すお金なんて、一円もないから!」
背後にいた弁護士が一歩前に出る。
「失礼ですが、法律によれば知里様には、婚姻中に形成された共有財産を分割する正当な権利があります。
神谷様の会社の株式については、知里様が51%を保有しています。
婚姻後に取得された不動産および車両についても、原則として折半となります。
また、創業初期に拠出された一億円の資金は、知里様の婚前財産に該当し、全額返還対象となるでしょう」
病室の空気が、一瞬で凍りついた。
恒一が立ち上がり、協議書を乱暴にひったくる。
そして、その場で引き裂いた。
紙片が、床にばらばらと落ちる。
「知里……俺を陥れるつもりか」
その目は、怒りというより、危険な何かを孕んでいた。
「私は、自分のものを取り戻すだけ」
「自分のもの?」彼は一歩踏み込み、私の首を掴む。
「俺がいなければ、あの金は何の価値もない!
今のお前が手にしてるものは、全部俺が作ったんだ!
何も持たない女だったお前をここまで引き上げたのは、俺だろ!」
息が詰まり、視界が揺れる。
恒一の目に、はっきりと殺意があった。
この人は、疑いようもなく本気だ。
意識が遠のく中、三年前の記憶が浮かぶ。
初めて、多額の契約金が振り込まれた日。
恒一は、カード入りの封筒を添えた花束を差し出した。
「知里、金の管理は全部任せる。家も、会社も……俺自身も、お前のものだ」
彼は私を力いっぱいで抱きしめ、額にキスをした。
でも、もう過去には戻れない。
「神谷様、やめてください!それ以上は、完全に暴力です!」
弁護士が間に割って入る。
恒一が手を放し、私は床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
彼は私を見下ろす。そこに、感情はなかった。
「離婚したいなら、してやる。
条件は一つ。何も持たずに出ていけ。
それが嫌なら――お前が死ぬ覚悟をしろ」
恒一の冷酷な目つきを見て、私の背中に冷たいものが走った。
私はゆっくり立ち上がり、服を整える。
「恒一……あなたは必ず後悔するよ」
「後悔?」彼は、心底馬鹿にしたように笑った。
「俺が人生で一番後悔してるのはな、お前と結婚したことだ」
私は何も言わず、病室を出た。
廊下に出た瞬間、壁にもたれ、脚から力が抜ける。
そのとき、スマホが鳴った。直哉からだった。
「……大丈夫か」
心配している声だった。
「平気」私は一度、深く息を吸う。「ただ……思ってた以上に、冷たい人だった」
「だから言っただろ。神谷恒一は、知里を大事にする人間じゃない。
知里、あいつを捨てて、こっちに来い。
もう二度と、誰にも踏みにじらせない」
私は、少しの間、黙った。
「……少し、考えさせて」
電話を切った直後、銀行からの通知が届く。
口座凍結。私名義のカードは、すべて使えなくなっていた。
本気で、私を追い込むつもりらしい。
……これでいい。
私は、恒一と暮らしていた家へ戻った。
自分で設計し、たくさんの時間を過ごした場所。
今は、ただ空虚だ。
金庫を開け、不動産の権利書と、会社の株式譲渡契約書を取り出す。
かつて、彼を信じて署名した白紙の契約。
名前を書き込めば、会社は彼のものになるはずだった。
私は弁護士に電話をかける。
「佐々木さん、クロスリンク・グループの買収部に連絡して。
私の手元に、神谷恒一の会社の株が51%ある。
安く売るつもりだと、伝えて」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)