元カノを優先する彼との三年に終止符を第3話
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そのあと、彼は棚から救急箱を取り出し、しゃがみ込んで私の傷の手当てをしてくれた。
私は拒まなかった。ただ、彼が救急箱を開け、消毒液を手に取って、私の足首に丁寧に塗っていくのを黙って見ていた。
その手つきはひどく慎重で、力加減も絶妙だった。
「タクシーで帰れって言っただろ。どうしてこんなになるまで無理したんだ?」
私は答えなかった。
真夜中で、人けのない場所だった。タクシーがつかまらないのは言うまでもなく、たとえ拾えたとしても、女一人で安心して乗れるはずがなかった。
栞里のこととなると張りつめていた彼も、その緊張が抜けた途端、ほとんど一瞬でそこまで思い至ったようだった。
手の動きがわずかに止まり、声の調子まで少しやわらいだ。
「しばらくあまり歩くな。明日、病院で診てもらったほうが安心だ……」
私はそっと彼の言葉を遮った。
「郁人、別れよう」
静寂。
息が詰まるような静寂だった。
しばらくして、彼は眉をひそめたまま立ち上がり、苛立たしげに息を吐いた。
「真緒、いい加減にしろよ」
私はうつむいて、かすかな苦笑を漏らした。
ようやく覚悟を決めて別れを切り出したのに、彼の目にはただ私が駄々をこねているようにしか映らない。
私が十年も彼を好きだったからこそ、彼はきっと思い込んでいるのだ。本気で自分のもとを離れることなんてできない、この関係を本当に手放せるはずがない、と。
私は静かに彼を見つめ、真剣に言った。
「郁人、もう待ちたくないの」
私の恋も、私の人生も、どうして別の女の人に振り回されなきゃいけないの?
そんなふうになるくらいなら、いっそいらない。
郁人は口を開き、何か言おうとした。
けれど、言葉になる前に、またスマホが鳴った。
また栞里だった。
郁人は電話に出ると、数秒後にはコートを手にして玄関へ向かった。
玄関先まで行ってから、ようやく振り返り、さっき別れを告げたばかりの私を見た。
「変なこと考えるな。待ってろ、そしたら――」
そこまで言いかけて、彼は言葉を切った。さっき私が口にした言葉を思い出したのだろう。
少し迷ったあと、言い直すように言った。
「俺は絶対に、お前と結婚する」
ドアが静かに閉まり、かちりと小さな音を立てた。
彼は、車の中で私がした問いに答えたのだった。
「あなたは、本当に私と結婚してくれる?」
ようやく肯定の答えをもらえたのに、少しも嬉しくなかった。
私はがらんとしたリビングに座ったまま、一睡もできずに夜を明かした。
空が白み始めるころ、私は立ち上がってパソコンを開き、会社が前から出していた海外赴任の募集ページを開いた。
必要事項をすべて入力し終え、指先がほんのわずかに震えたあと、私は迷わず送信ボタンを押した。
画面に「申請完了」と表示されたとき、私は長く息を吐いた。まるでこの三年間ずっと背負っていた重荷をようやく下ろせたみたいだった。
上司から電話がかかってきた。その声は驚きを隠しきれていなかった。
「橋本さん、まさか君が海外赴任に応募するなんて。
これまで三回もチャンスがあったのに全部断ってたのに、どうして今回は急に気が変わったんだ?」
会社では毎年一度、海外派遣の機会があった。待遇はよく、将来性もある。誰もが喉から手が出るほど欲しがる枠だった。
私はそのたびに、郁人のために諦めてきた。
何度も何度も、彼のために自分の人生をその場に縛りつけてきた。
でも、もう今回は違う。
私は少しずつ明るくなっていく窓の外を見つめ、ふっと肩の力を抜いたように笑った。
「別に大したことじゃないんです。ただ急に吹っ切れただけ。もう誰か一人のために立ち止まりたくないんです」
電話を切ると、SNSに新しい投稿の通知が表示された。
栞里の投稿だった。
写真はたぶん付き添いの人が撮ったのだろう。構図は出来すぎなくらいきれいだった。
彼女は安心しきったように郁人の膝の上に腰を下ろし、郁人は顔を伏せて彼女を見つめていた。その眼差しは、とろけるように甘かった。
添えられていた一文は、ただそれだけだった。
【遠回りしても、やっぱりあなた】
私は指先で軽く画面を叩き、その投稿に「いいね」をつけた。
それからスマホを置き、立ち上がって荷造りを始めた。
ほどなくして、スマホの画面がまた点いた。
郁人からのメッセージだった。表示されたメッセージは、結局いつもの取り繕うような慰めの言葉ばかりだった。
細かく読む気力すらもうなくて、私はそのままスマホをマナーモードに切り替え、手近なところへ放り出した。
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