元カノは彼の子を堕ろした——それでも、彼は私に理解を求めた第3話
この話は約1784字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
子犬が突然私に飛びかかってきて、私は悲鳴をあげて寝室へ逃げ込み、ドアを閉めた。
しばらくして、湊真が静かにドアを開けて、背後からそっと私を抱きしめた。
「ごめん……琴が犬を怖がってるなんて知らなかった。もう、あの子は手放した」
「……うん」
私は淡々と返事をした。
このとき、初めてはっきり気づいた。
湊真は、私のことを何も知らなかったのだ。
五年も付き合って、私は彼の好みも習慣も全部覚えてるのに、彼は私の一番大事なことさえ知らない。
——でも、八年前に別れた心咲の好みなら、細かく語れるくせに。
「もう怒るなって。明日、時間あるから……一緒に、籍入れに行こう?」
暗がりの中、湊真の声はやけに優しく、甘かった。
……本当なら、きっぱり断るべきだった。
なのに私はまた、期待してしまった。
——これが最後。
これでダメなら、もう何も残さない。
翌朝、私は丁寧にメイクをして、お気に入りのワンピースに袖を通した。
湊真も、珍しくスーツを着て、車で区役所まで連れて行ってくれた。
今回、彼は自分のスマホをわざわざ機内モードに設定し、私の携帯でナビを操作していた。
道中、私たちはひと言も言葉を交わさなかった。ただ、静かに車が進む。
番号札を取り、列に並んで、ようやく呼ばれる直前——
湊真のポケットで、スマホが振動を始めた。
……我慢できなかったんだな。
私の視線に気づいたのか、彼はバツが悪そうにスマホを取り出し、無言でサイレントに切り替える。
それでも、スマホの震えは止まらなかった。
ふと掲示板を見ると、あと一組で私たちの番だった。
「……出てあげて。気もそぞろじゃ、署名だって間違えるでしょ」
湊真は二秒ほど迷ってから、頷いて通話ボタンを押した。
スピーカーから、弱々しい女の声が響いた。
「湊真、下腹部から血が出てて……病院にいるの。先生には、流産の後遺症だって言われて……来てほしい」
「今、区役所で手続き中で、動けない」
彼の声は緊張気味で、それでもこっそり私の表情を窺っている。
私は無言で彼を見つめ返した。
次の瞬間、スピーカー越しに鋭い女の声が割り込んできた。
——それは、心咲ではなく、あの親友の水嶋紗夜(みずしまさよ)だった。
「湊真、心咲の状態は本当にヤバいの。彼女が言ってたよ。あんたが来ないなら、手術受けないって。
今すぐ来ないなら、彼女が死んでもいいの?
いつだって手続きできるでしょ?彼女はあんたのために子どもを失ったのよ。今すぐ来て何が悪いの?」
湊真は、何度も口を開きかけては閉じて、最後にはスマホをそっと下ろした。
「行ってあげて」
私は目を伏せながら、静かに告げた。
彼はため息をついて、言い訳のように何かを語り続けた。
けれど結局、私の手を取ることもなく、彼は立ち去った。
「本当は行きたくない。でも、彼女……本当に今だけは俺が必要で……一時間だけ、ね?一時間で戻るから。お願い、待ってて?」
私は無言で彼を見つめた。
「彼女は俺のために子どもを……」
「うん、わかってる。行って。
——もう、待たないから」
湊真の背中が見えなくなるまで、私は何も言わなかった。
そして、そっと手の中の番号札を丸めて、ゴミ箱に捨てた。
この日のために、どれほど覚悟を決めてきたか。
もし彼が籍を入れてくれるなら、私はすべてを許すつもりだった。
実家へ連れて行き、両親にも紹介するつもりだった。
でも……これが答えなんだ。
——名栗野には、一人で行くことになりそうだ。
その夜、湊真はやっぱり帰ってこなかった。
けれど、電話をかけてきて、三十分ほど他愛ない話をした。
妙な違和感が残った。
いつもなら、心咲の家にいるときは、彼女が電話すら許さないのに。
今夜は、一体どういう風の吹き回し?
翌朝、私は出社して、会社の荷物をまとめた。
三日後には名栗野へ発つ予定だ。
片づけを終え、オフィスの皆が見送りに来てくれた。
玄関で何人かの同僚と別れを惜しんでいたとき——
「琴ちゃん、昇進おめでとう!名栗野でもがんばってね!」
私は目を潤ませながら手を振った。
「みんな、名栗野に来たときは連絡してね」
そのとき、少しお節介な同僚が冗談っぽく聞いてきた。
「ところでさ、旦那さんよく許してくれたね?転勤なんて」
私は静かに笑い、言った。
「旦那じゃないよ……籍、入れてないし、別れたから」
言い終わったその瞬間。
背中に、熱くて焦ったような視線を感じた。
振り向くと、そこに——湊真が立っていた。
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