元カノは彼の子を堕ろした——それでも、彼は私に理解を求めた第1話
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五度目の区役所。
けれど、今回も私と篠原湊真(しのはら そうま)は、婚姻届を提出できなかった。
縁起の良い日を選び、朝から準備万端で来たというのに——受付まであと一組というタイミングで、彼のスマホが鳴った。
慌てた様子で立ち上がろうとする湊真の腕をつかみ、私は画面を指差して訴えた。
「あと一組だけだよ。区役所も空いてるし、10分もあれば終わるよ……それからにして。籍入れてからでも遅くないよね?」
湊真は会社を経営していて、時間の融通も利く人だ。
だからこそ、私は甘えてしまっていたのかもしれない。
しかし彼は、表示された番号を一瞥しただけで、手にしていた番号札を私に無造作に押し付け、うんざりした顔で言い放った。
「俺はいつだって君と結婚できる。でも今は処理しなきゃいけない仕事がある……感情的になるなよ」
* * *
五度目の区役所。
けれど、今回も私と篠原湊真(しのはら そうま)は、婚姻届を提出できなかった。
縁起の良い日を選び、朝から準備万端で来たというのに——受付まであと一組というタイミングで、彼のスマホが鳴った。
慌てた様子で立ち上がろうとする湊真の腕をつかみ、私は画面を指差して訴えた。
「あと一組だけだよ。区役所も空いてるし、10分もあれば終わるよ……それからにして。籍入れてからでも遅くないよね?」
湊真は会社を経営していて、時間の融通も利く人だ。
だからこそ、私は甘えてしまっていたのかもしれない。
しかし彼は、表示された番号を一瞥しただけで、手にしていた番号札を私に無造作に押し付け、うんざりした顔で言い放った。
「俺はいつだって君と結婚できる。でも今は処理しなきゃいけない仕事がある……感情的になるなよ」
うつむいたまま、私は静かに番号札を握りしめた。
湊真は、やっぱり行ってしまった。
区役所の待合スペースに、ぽつんと一人残された私。
スピーカーから「〇番の方、窓口へどうぞ」という無情な声が響く。
私は涙を堪えながら、番号札をくしゃっと握り、ゴミ箱へ放り込んだ。
湊真とは付き合って五年。二年前、彼からプロポーズされたけど——その婚姻届はいまだに提出できていない。
そのとき、不意にスマホが鳴った。
電話の向こうで、母が嬉しそうに聞いてくる。
「どうだった?湊真くんと、もう籍入れた?」
母は二年前にがんを患ってから、体調がどんどん悪くなっていた。
せめて自分が元気なうちに、私が結婚する姿を見届けたい——それが母の願いだった。
鼻をすすりながら、私は曖昧に言い訳をした。
受話器の向こう、数秒の沈黙のあと、母の声にわずかな落胆がにじんでいた。
「湊真くん、お仕事忙しいのね……うん、仕方ない、仕方ないわよね……」
家に戻ったばかりの頃。
スマホが震えた。大学時代のグループチャットだった。
柚原心咲(ゆはら ここな)が、写真と共にメッセージを投稿していた。
【今日はクリスマス。私が「プレゼント早く欲しいな」って言ったら、彼すぐに来てくれたの♡】
【「すぐ行く、呼ばれたら行く」って、いつでも変わらない約束】
写真には、湊真が心咲の首に金のネックレスをかけてあげている姿が映っていた。
すぐに誰かが返信した。
【わ〜羨ましい!幼なじみってやっぱり特別だよね】
【別れても友達って、本当にあるんだな〜】
——そう、このグループは大学の同期グルチャ。
その子の言葉は間違っていなかった。
湊真と心咲は昔、付き合っていた。
彼女は、湊真の子を流産した。
だから毎年の節目やイベントでは、彼はまず心咲を優先し、その翌日に私と過ごす。
かつての私は、それが悔しくて何度も彼にぶつけたことがあった。
けれど湊真は、いつも辟易した顔でこう言うのだった。
「彼女は俺の子を失った。もう他の男に『綺麗な体』だなんて思ってもらえないだろ。だから結婚するまで、俺が倍にして償ってやるって決めたんだ。
それに、一日遅れで祝うってだけでしょ?何が不満なの?」
でも、イベントが終わってからの「後祝い」に、どんな意味があるというのだろう。
私は静かに、ひとり分のクリスマスディナーの写真をアップした。
【みんな、メリークリスマス】
間もなく、グループ内の数人が状況に気づいた。
【え、マジ?てっきり一緒に出かけてるかと思ってた……】
【湊真って、前カノ優先なんだ……あの柚原さん、前からちょっと怪しいと思ってた】
【琴ちゃん、この前「お母さんのためにも今年中に結婚したい」って言ってたよね……まさか、邪魔されるなんて……】
スマホが震えた。通知は、湊真からの特別ピン留め。
【明日、お前の実家に挨拶行く。結婚式のこと、話そう】
——五年付き合って、湊真が私の実家を訪れたのは、あのプロポーズのときだけ。
彼はいつも「忙しい」と言い訳し、帰省にも付き合おうとしなかった。
けれど、心咲の一言、「流産の後遺症でお腹が痛いの」って呟くだけで、湊真はすぐに駆けつけた。
それか、「会いたいな」ってたった一言。それだけで湊真は三十分以内に駆けつける。
……これは、きっと「機嫌取り」だ。
昔の私なら、嬉しくてすぐに準備を始めたかもしれない。
でも今の私は、もう疲れていた。
【また今度にしよう】
湊真からの返信は、すぐだった。
【またかよ。何を拗ねてるんだよ?】
ああ、そうだった。
私には、拗ねる権利すらなかったんだ。
彼の前で、感情を出せるのは——心咲だけ。
【?】
追い討ちのような催促が来た。
一瞬のためらいの後、母の期待を思い出して、私はため息と共に返信した。
【……わかった】
翌日、私は有休を取り、一人で先に実家へ向かった。
湊真は「後から行く」と言っていた。
彼が来ると知って、母は朝から弱った体を引きずって市場へ行き、
痛みをこらえて、食卓いっぱいの料理を準備してくれていた。
けれど——
両親は、昼から夜中まで待ち続けても、湊真は現れなかった。
私は何度も電話をかけたが、ずっと繋がらなかった。
母は、私の気持ちを察して、無理やり湊真の「事情」を擁護しようとした。
——それでも、電話一本の折り返しすらないまま、その夜は終わった。
翌日。会社に戻った私を、上司の早川千佳(はやかわちか)が呼んだ。
「決めた?名栗野支社の副支店長ポスト。
あなたの力なら充分にやれる。私が推薦出すから、行くなら今がチャンスよ。
……高梨琴(たかなしこと)、これは最後のオファーだと思って」
私は、少しだけ目を見開いた。
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