傷痕を抱いて悔やみなさい第3話
この話は約2023字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
卒業の祝いを兼ねたクラスの打ち上げは、大学の裏通りにある一番大きなレストランで開かれた。
私が個室のドアを押し開けて中に入ると、室内はすでに学生たちで埋まっていた。
メインテーブルの真ん中には、二つ並んだ空席が残されている。
ある男子がみんなにグラスを配りながら声を張り上げていた。
「おい、そこはまだ座るなよ。ど真ん中の特等席は北斗とマドンナのために空けとくんだからな!」
ちょうどその時、北斗と朋美が前後に並んで個室に入ってきた。
その瞬間、室内はドッと沸き返り、からかい交じりの歓声が響いた。
「お似合いカップルの登場だ!」
「ほんと美男美女のおでましだな!」
北斗はそれを否定しようともしなかった。
彼は笑みを浮かべたまま歩み寄り、椅子の一つを引いて朋美を座らせる。そして、ごく自然な動作で彼女の隣に腰を下ろした。
彼の本物の恋人である私は、すっかり忘れ去られていた。
私はメインテーブルから一番離れた隅の席にひっそりと座った。この茶番劇を冷めた目で見つめるしかなかった。
酒が進むにつれ、場の空気は最高潮に達した。
誰かが空の酒瓶を回して、「真実か挑戦か」をやろうと言い出した。
テーブルの中央で酒瓶が勢いよく回される。
そして、ぴたりと朋美の正面で止まった。
朋美は頬を赤らめて立ち上がった。「私、挑戦にするわ」
提案した男子が、すかさず椅子の上に立ち上がって叫んだ。
「なら、朋美からうちの看板イケメン・北斗に、10秒間の本気ハグだ!」
場内から割れんばかりの歓声と指笛が鳴り響いた。
朋美は両手で顔を覆い隠すようにしながらも、期待に満ちた上目遣いで北斗を見つめている。
北斗は手にしたライターを、指先でくるくると弄んでいた。
ふと、その動きが止まる。
人だかり越しに、彼の視線が隅にいる私へと向けられた。
私は無表情のまま彼を見つめ返した。
北斗の目の奥に、ありありと苛立ちの色が走った。彼は視線を逸らすと、迷いなく立ち上がった。
その口元には薄く笑みが浮かんでいる。
朋美の前まで歩み寄り、自ら両手を広げて彼女の華奢な体をぎゅっと腕の中に抱きしめた。
皆が手拍子に合わせてカウントダウンを数え上げる。朋美はうっとりと北斗の胸元に顔を埋めていた。
10秒が過ぎ、北斗がそっと腕をほどくと、朋美は頬を朱に染めて恥じらうように甘く微笑んだ。
私の胃の腑から、吐き気を催すほどの強烈な嫌悪感が込み上げてきた。
頭の中に、大学1年の時の記憶が制御不能なほどフラッシュバックする。
北斗が初めて私を大学裏の小さな居酒屋に連れて行ってくれた日のことだ。
あの時、彼は私の手をぎゅっと包み込み、その瞳をきらきらと輝かせていた。
「紬希、俺たちの婚約の日が待ち遠しいよ。その時は、誰にも隠さないで、みんなの前で堂々と抱き合おう」
あの時の甘い言葉の数々が、今は鋭い平手打ちとなって私の頬を容赦なく張り飛ばした。
私は席を立ち、個室を出てトイレへと向かった。
廊下の角を曲がったところで、朋美の声が耳に飛び込んできた。
彼女は数人の女子と一緒に、換気扇の下でタバコを吹かしていた。
「ねえ朋美、北斗の背中にある『T』って、本当にあんたのイニシャルなの?」
朋美の口調には、隠しきれない優越感が滲んでいた。
「当たり前じゃない。3年の時、私が酔っ払った勢いで彼の背中にタトゥーペンで適当に『T』って書いて、これが私のものだっていう印よって言ったの。そしたら彼、次の日には本当にタトゥーを入れてきちゃったのよ」
ちょうどその時、トイレの方向から歩いてくる人影があった。
北斗だった。
女子たちは慌てて口を噤んだ。
北斗は朋美の前に歩み寄ると、否定するどころか、甘やかすように彼女の髪をくしゃりと撫でた。
「調子に乗るなよ。あちこちで言いふらすなって」
そう言うと、彼は笑いながら個室の方へと戻っていった。
私は影の中に立ち尽くし、彼の背中が廊下の突き当たりに消えていくのを見送った。
胸を締め付けていたあの息苦しい痛みは、もう完全に消え去っていた。後に残ったのは、果てしなく広がる虚無感だけだった。
私はスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。
北斗のいる大学のグループチャットを、一つ一つタップして退会していった。
それから彼のアイコンを開き、ピン留めしてあった【大好きな北斗】と登録していた愛称を削除し、フルネームを入力し直した。
【九条北斗】
レストランを出て帰路につく頃には、夜風がひどく冷たくなっていた。
ポケットの中でスマホが震えた。
指導教官からメッセージが届いていた。
【高梨さん、S市芸術大学の進学特別推薦枠が正式に承認されたよ。向こうの大学が急いでいてね、明日の夜には出発して手続きを済ませる必要がある】
私は足を止め、夜空を見上げた。そして画面の上で指先を素早く滑らせる。
【分かりました。ありがとうございます、先生。私がS市へ行くことは、どうか絶対に秘密にしてください】
スマホの画面を消した。
薄暗い街灯の光の下を、私は再び前を向いて歩き出した。
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