偽りの誓い、私だけの星第1話
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小野木純夏(おのぎ すみか)が病院の前を行ったり来たりするのも、これで七度目だった。ようやく心を決め、採卵手術を受けることにした。
ところが、受付で提出した書類を確認していた看護師が、不思議そうに首をかしげた。
「あの、小野木さん。念のため確認させていただきたいのですが……本当に婚姻届は提出されていますか?」
純夏は面食らいながらも答えた。
「もちろんです。主人とは結婚して五年になりますけど」
「こちらの書類を見る限り、ご主人との婚姻関係が確認できないんです。まれに、相手が婚姻届を出したと言いながら、実際には提出していなかったというケースもありますので……一度、戸籍を確認されたほうがいいかもしれません」
遠回しな忠告に、純夏は思わず笑いそうになった。
世の中には、そんな無責任な男もいるのだろう。けれど彼女の夫・小野木克己(おのぎ かつみ)に限って、それはない。
結婚して五年、小野木家の年長者からは子どものことで幾度となく圧力をかけられてきた。純夏はかつてのトラウマのせいで、なかなか子宝に恵まれずにいた。
そのたび克己が間に立って庇い、本家から折檻を受けたことも十度は下らない。一族の年長者たちと言い争ったことさえあった。
「妻の健康を犠牲にしてまで、子どもを望むつもりはありません」
克己の献身を思うたび、胸が痛んだ。これ以上傷ついてほしくない一心で、純夏は内緒で採卵手術を受けに来たのだ。
何かの手違いだろうと思った純夏は、深く考えず、別の病院でも診てもらおうとした。
そのとき、スマホが鳴った。家政婦の高橋からだった。
「奥様、大変です、すぐお戻りください!旦那様が書斎で正座させられて、大旦那様がゴルフの素振り棒を振るって!今回はただ事じゃないようです!」
――きっとまた、私のせいだ。
胸が締めつけられるのを感じながら、純夏は病院を飛び出した。
本家に駆けつけると、書斎の扉は固く閉ざされていた。それでも、中から漏れる押し殺した言い争いの声までは遮れない。
扉に手をかけようとしたそのとき、怒気を孕んだ克己の母・小野木朋恵(おのぎ ともえ)の声が響いた。
「克己、灯里のことはもう吹っ切ったと言っていたわよね。だったら、書斎の隠し部屋の壁一面を埋め尽くしている彼女の写真は、いったい何なの!?」
* * *
――灯里?
その名前を聞いた瞬間、純夏の体がこわばった。
大学時代、成績で純夏に一位を奪われたことが許せず、卒業制作を台無しにし、トイレに閉じ込めて水をかけ、あろうことか無理やり服を剥ぎ取って隠し撮りまでした、あの堂田灯里(どうだ あかり)のこと?
ドアノブにかけた手が、そのまま止まった。無意識に、純夏はさらに扉へとにじり寄っていた。
「母さん、灯里のご両親は、僕を助けようとして亡くなったんです」
克己の声は、疲れきったように低く沈んでいた。
「お二人が亡くなる間際に、僕は灯里の面倒を一生見ると約束しました」
「面倒を見る?あんな風に甘やかすことが、面倒を見るということなの?同級生をいじめて、純夏まで苦しめて、それどころか」
朋恵の声が詰まる。
「よりにもよって、人に純夏を襲わせたなんて!克己、あなたは法律を学んだ身でしょう、それがどんな罪か分からないはずがないでしょう!」
純夏は息を呑んだ。耳の奥で、鈍い耳鳴りがした。
「……分かっています」克己の声は、ひどく掠れていた。
「でも、あのとき灯里はまだ二十歳だったんです。黙って刑務所へ送るような真似が、僕にできると思いますか。
僕は土下座してまで、灯里を国外に出してくれと頼みました。純夏には、結婚して一生守り抜くことで償ったつもりです。それでも足りないと?」
ぱしん、とゴルフの素振り棒が振り下ろされる音。
克己の父の小野木耕造(おのぎ こうぞう)は怒りを抑えきれない様子だった。
「結婚式は挙げず、婚姻関係まで偽装し、その上、自分の体にまでメスを入れるとは!
あろうことか、灯里をこっそり国内に呼び戻して、一ヶ月も世話をしていたそうじゃないか。克己、これのどこが償いだと言うんだ」
克己は長い沈黙のあと、灯里をかばうような声で口を開いた。
「灯里は向こうでろくに食事も睡眠もとれず、半年のうちに三度も入院したんです。言葉も通じず、友達もできず、大家に追い出され、コンビニのバイト先でもいじめに遭って……
父さん、彼女はもう十分すぎるほど罰を受けています。若気の至りで犯した過ちに対して、これ以上、どうしろと言うんですか。
僕はただ、これ以上灯里が苦しむのを見ていられないだけです」
扉の外、壁に添えていた純夏の手が、ずるずると滑り落ちていった。
五年前の雨の夜。空き教室に引きずり込まれたとき、加害者たちが忍び笑いを浮かべながら口にした言葉を、純夏はうっすらと覚えている。
「灯里さんが、とことんやれって言ってたぞ」
そのあと、克己の腕の中で震えながら、純夏は首謀者の名前を口にした。
克己は長いこと黙り込み、やがて優しく背中を撫でながら慰めてくれた。
「……純夏、これは事故だったんだ。あいつらにはもう対処したから」
あのとき、純夏は本気で克己を信じていた。
克己は学校でも評判の、誠実な人間だったからだ。嘘をつかず、誰に対しても公平で、いつだって正義と弱者の側に立っていた。
灯里が仲間を連れて純夏を取り囲んでいるのを目撃したときに、克己はその場で灯里に謝罪させ、撮った写真をすべて消させた。
そして冷たく言い放った。「今度また、お前たちが誰かをいじめているところを見たら、警察に通報するからな」
あの日、服を破かれて教室の隅にうずくまっていた純夏に、上着を脱いで羽織らせてくれたのも克己だった。
好奇の視線からかばうように廊下を歩き、克己はきっぱりと言い切った。「自分を抑えられなかった僕が悪い。純夏は関係ない」
一夜にして、克己がすべての汚名を引き受けた。
純夏はそれ以上傷つくことなく克己に守られ、そして真剣な告白を受けたのだ。
「純夏、僕と結婚してくれないか。ずっと前から好きだった。ただ、君はいつもうつむいてばかりで、僕に気づいてくれなかった」
あのとき、純夏の灰色だった世界に、一筋の光が差し込んだ気がした。
この五年間、克己は少しずつ純夏を惨めな過去から引き上げ、背筋を伸ばして生きることを、そして人を愛することも、憎むことも恐れないよう教えてくれた。
事件の後遺症のせいで子を授かりにくいと告げられたときも、純夏の髪に口づけてこう言ってくれた。
「子どもは縁があればできるものだ。いなくてもいい」
この五年間、純夏はその思い出に幸せを感じながら、同時にずっと後ろめたさを抱えてもきた。
けれど今この瞬間になって初めて知った――
受け取ってきた愛のすべては、哀れみから生まれたものだったのだと。
あの誰よりも実直で公正だったはずの克己が、灯里のために私情で事実を揉み消し、結婚そのものまで偽っていたのだと。
書斎の中、克己の声がふっと低くなった。そこには、どこか残酷なほどの確信があった。
「純夏は僕を愛しています。僕さえ黙っていれば、純夏が知ることは永遠にない。この先も一生大切にします。それで十分でしょう」
純夏は不意におかしくなって、笑いがこみ上げた。笑っているうちに、目の縁がじわりと赤く染まっていく。
彼女はゆっくりと、けれど確かに、背筋を伸ばしていった。
そのとき、扉の向こうで克己のスマホが鳴った。慌てて出た声には、これまで一度も聞いたことのない緊張が滲んでいた。
「灯里?どうした、何かあったのか?大丈夫、すぐ行くから」
電話を切ると、乱れた服装を直す暇も惜しんで、克己はまっすぐ書斎の扉を開け放った。
だが、扉が開いた瞬間、克己の動きがぴたりと止まった。
純夏は扉のすぐ外に立ち、静かに克己を見つめていた。
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