和紙文今、あの時の過ちを知る · 第1話設定≡

今、あの時の過ちを知る第1話

この話は約2170字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

かつて私だけが、都で唯一、皇太子を恐れぬ女だと言われていた。

そして、あの日、公の場で彼は宣言した。

「必ずや汝を皇太子妃として迎へ、この世にては唯だ汝ひとりを妻とする」と。

しかし、江南へ巡視に出た折、彼は脳の病気を患った花魁に出会った。

彼女が「この方以外には嫁がない」と言い張った結果、彼は進んでその花魁の身請け金を出し、哀れな女の夢を叶えてやった。

そして自ら皇帝陛下に奏上し、私との離縁を願い出て、こう言い放った。

「汝には、永遠にこの家の主となる資格はない」

だから私は、離縁状に一瞬の迷いもなく指印を押し、静かに差し出した。

「もう、ご署名は済んでおります」

これで、私たちは解き放たれ、二度と振り返らずに歩み去るだけなのだ。

* * *

かつて私だけが、都で唯一、皇太子を恐れぬ女だと言われていた。

そして、あの日、公の場で彼は宣言した。

「必ずや汝を皇太子妃として迎へ、この世にては唯だ汝ひとりを妻とする」と。

しかし、江南へ巡視に出た折、彼は脳の病気を患った花魁に出会った。

彼女が「この方以外には嫁がない」と言い張った結果、彼は進んでその花魁の身請け金を出し、哀れな女の夢を叶えてやった。

そして自ら皇帝陛下に奏上し、私との離縁を願い出て、こう言い放った。

「汝には、永遠にこの家の主となる資格はない」

だから私は、離縁状に一瞬の迷いもなく指印を押し、静かに差し出した。

「もう、ご署名は済んでおります」

これで、私たちは解き放たれ、二度と振り返らずに歩み去るだけなのだ。

……

離縁状を書き終えた夜、私は一晩中、ぼうっと座り続けていた。

今日を境に、私はもう宋懐景(そう かいけい)の妻ではない。

そして彼はようやく、柳如煙(りゅう じょえん)の夢を叶え、花魁を皇太子妃として迎え入れる。

……両方にとって喜ぶことだ。

きいっ、と戸が音を立てて開く。

宋懐景が部屋へ入ってきて、気まずそうに口を開いた。

「すまなかった、歳晩(さいばん)。昨日の言葉は……気にしないでくれ」

私は答えず、ただ静かに視線をそらした。

気にしていないわけがない。

あの冷酷な言葉は、とっくに私の心を木端微塵に砕いていたのだ。

返事のない私に、彼はさして気にも留めない様子で、袖から錦の小箱を取り出し、机に置いた。

中には、蘭の花をかたどった玉佩。

――昔なら、私が落ち込むたび、彼はこんな風に贈り物を持ってきてくれた。

けれど今、私の胸には微塵の喜びも湧いてこない。

拒もうとしたその時、宋懐景が一方的に言葉を継いだ。

「しばらくは……少し我慢してくれ。如煙は良い娘だ。落ち着いた頃には、必ず汝も労わるから」

思わず、嗤うような息が漏れた。私の胸の奥底は冷え切っている。

――そうね。柳如煙は良い娘だ。

だからこそ、都に戻って数日も経たぬうちに、私を皇太子妃の座から引きずり落とそうとする。

これ以上聞くに堪えず、私はそっと目を伏せた。

「……疲れました。どうかお引き取りを」

宋懐景が眉をひそめ、何か言いかけようとしたその時――甘ったるくて息が詰まるような香りと共に、もう一人が部屋へ入って来た。

「殿下、姉上に何をお渡しになっていらっしゃいますの?妾にも、拝見させてくださいませ」

柳如煙が宋懐景の腕にすり寄り、嬌声をあげる。

宋懐景が気まずそうに目を泳がせるのをよそに、私は淡々と告げた。

「ただの玉佩です。お望みなら、あげましょうか」

――どうせ近頃、あなたが欲しがるものは何でも、私の手元から奪い取っていくのだから。

柳如煙は箱を覗き込み、嘲るようにくすりと笑った。

「まあ、何だと思いましたら……殿下が妾に頭飾りをお買い上げくださった折、店主がおまけに添えてくださった品ではございませんか。

姉上がお気に召すなら、妾の手元にまだ幾つもございますわ。ゆっくりとお選びくださいませ」

私は手巾(ハンカチ)を握りしめ、無理に微笑を作った。

――おまけの品、だったのか。

宋懐景の目に一瞬、狼狽が走った。

すぐに、苦し紛れの言い訳が続く。

「歳晩、勘違いするな……真心こもっていれば、それで良いと思っただけだ」

私は顔を背け、熱を帯びた目元を隠した。

「ええ、分かっております」

――分かっている。私たちの間の情愛など、最早ほとんど残っていないのだということを。

そして、僅かな残りの情愛でさえ、もはや私は求めたりはしない。

帰って頂こうと口を開こうとしたその時、柳如煙が陽気に言った。

「姉上、殿下は明後日、妾の花嫁衣装選びにお付き合いくださいますの。よろしければ、姉上もご一緒に?

都では今、どのような文様が流行っているのか、妾、詳しくなくて……どうか、ご助言いただけませんでしょうか?」

胸が揺れ動き、思わず宋懐景を見た。

「……殿下も、私が行って欲しいと?」

宋懐景は唇をわずかに噛み、私の目を避けた。

「如煙の望みだから……汝も、寛大であれ」

心臓を鋭い刃で何度も刺し貫かれるようで、私はそっと目を閉じ、重たく頷いた。

「……わかりました」

宋懐景、私は約束する。

――あなたが望むのなら、私は必ず……迷いなく、この場から去ってみせる。

残りの時間は、七日。

二人が去った後、私は机の上の玉佩を手に取った。

触れば冷たく、裏面には指先を痛めるような、細やかなひび割れが走っている。

それはまるで、宋懐景との情愛のようだった――いつの間にか、人の知らぬうちに、粉々に砕け散っていたのだ。

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)