今日を忘れても、この肌の文字は裏切らない第2話
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私が目を覚ますと、右手首をぐるりと囲むように赤紫色の痣ができていた。
誰かに力任せに握り締められたかのように、くっきりと痕が残り、その縁には痛々しい血の筋まで浮かんでいた。
凌太がベッドの脇に座り、綿棒に軟膏をつけて、傷口に塗ってくれていた。
「起きたか?」
彼は顔を上げ、私の手首に唇を寄せてふっと息を吹きかけた。その声にはいたわるような響きがあった。
「昨夜もまた悪夢を見たんだよ。ベッドフレームの隙間に手を突っ込んでしまってね。引っ張り出そうとしたら、君がひどく抵抗して暴れるものだから、こんな痕がついてしまったんだ」
私はその痣をじっと見つめた。
くっきりと5本の指の形をしている。
けれど、何も覚えていない。
凌太の手が一瞬止まった。
顔を上げて私を見るその目には、優しさの奥に、ふと疲労の色が浮かんだ。
「紗英子、頼むからこういうのはもうやめてくれないか。こっちは心配でたまらないんだよ。
いつも尻拭いをさせられるのは俺なんだ。
君がこんな調子だと、俺も本当に疲れてしまう」
彼は綿棒をゴミ箱へ放り捨て、眉間を指で揉んだ。
「時々分からなくなるよ。俺は恋人と付き合っているのか、それとも病人の世話をしているのか」
私は慌てて首を振った。目頭が一気に熱くなった。
「ごめんなさい……わざとじゃないの。本当に何も覚えていなくて……」
昨夜何があったのか、私には分からない。
私が知っているのは、彼から教えられたことだけだ。
もし、その彼にまで疎まれ始めたら……
自分はもう、何に縋って生きればいいのだろう。
凌太は私の目が赤くなったのを見て、しばらく黙り込んだあと、小さくため息をついた。
腕を伸ばして私を抱き寄せ、手のひらで背中をそっと叩いた。
「はぁ……怒っているんじゃないよ。忘れてしまうのは君のせいじゃない。
でも、俺の言うことだけは聞いてくれないと困るんだ、紗英子。
むやみに動くな。何でも興味本位で触るな」
背中に回された彼の手に、わずかに力がこもった。
「君を守るには、ひとつ条件がある。協力してくれないとな」
私は彼の胸に顔を埋め、何度も頷いた。
彼に従うこと。
それが今の私にできる、唯一のことだった。
午後、凌太はリビングでテレビを見ていた。
私は寝室であの分厚い「記憶ノート」をめくっていた。
凌太によれば、忘れてしまった昨日を教えるために彼が書いてくれているのだという。
37ページと38ページの間で、めくる手が止まった。
1枚の付箋が挟まっている。
そこに書かれていたのは、たった一言。
【彼を信じるな】
文字は震えるように乱れていた。ノートの几帳面な字とはまるで違う。
けれどその筆跡は、紛れもなく私のものだった。
見間違えるはずがない。
心臓が突然、激しく脈打ち始めた。
いつ書いたのだろう。なぜこんなことを。自分は何を恐れていたのだろう。
リビングからテレビの音がぼんやり届いてくる。
私は顔を上げられないまま、付箋を強く握りしめた。
「さーえこさん、また何を見てるの?」
美羽が笑いながら近づいてくる。
私は反射的に手を背中へ隠した。
けれど、彼女のほうが素早かった。
手首を掴まれ、指をこじ開けられ、付箋を奪い取られてしまう。
彼女はちらりと目を通すと、声を上げて笑った。
「ねえ凌太、見てよ」
振り返り、しわくちゃの紙切れを彼に見せびらかす。
「この子、一昨日の夜中にまた寝ぼけてこんなの書いてたみたい。『彼を信じるな』だって。前の『助けて』と同じくらい不気味だよね。一度、精神科で診てもらったら?」
凌太はソファから顔を向けた。
ちらりと見ると、眉間を揉みながら、うんざりしたような声で言った。
「適当に捨てておけ。紗英子が寝ぼけて妙なことを書くのは、今に始まったことじゃないだろ」
彼は私のほうを向いた。その目は穏やかだったが、底には決して逆らうことを許さない重圧が潜んでいた。
「紗英子、自分で書いた意味の分からないものは気にしなくていい。発作のときに見た幻覚みたいなものなんだから」
少し間を置いて、彼は言った。
「俺の言うことだけを、信じればいい。分かるね?」
美羽は紙を丸め、ゴミ箱へ放った。
私はその紙くずが落ちていくのをただ見ていた。
喉の奥に何かがつかえていたが、声にはならなかった。
夜。
凌太はリビングで電話をしていた。声をひどくひそめていた。
私は布団にくるまり、目を閉じていた。
廊下から美羽の足音が聞こえる。
「ねえ。紗英子さんの妹、来月、療養施設の面会日があるって、教えてあげなくていいの?」
私の息が止まった。
妹?
誰の妹?
凌太の声が、どこか遠く、気だるげに響く。
「教えなくていい。忘れている方が都合がいいんだ。
行く前はいつも不安がって一晩中眠れないし、帰ってくれば一日中情緒不安定になる。こっちが何日も面倒を見る羽目になるんだから。
あっちは金さえ払っておけばいい。咲良には世話をする職員がついてるんだから、死にはしないさ」
平野咲良(ひらの さくら)。
私には妹がいる。
療養施設にいる。
それなのになぜ、ちっとも覚えていないのだろう。
暗闇の中で目を見開いたまま、爪が少しずつ手のひらに食い込んでいった。
覚えていたい。
心の中で強く願った。
けれど分かっていた。
明日の朝目を開けた瞬間、私はこの名前を忘れてしまう。今夜聞いたことのすべてを。
そしてまた、まっさらで空白の一日が始まるのだ。
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