今日を忘れても、この肌の文字は裏切らない第1話
この話は約2645字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
交通事故に遭ってから、私、平野紗英子(ひらの さえこ)の記憶は、事故に遭ったあの日から先へ進まなくなった。
毎朝目覚めるたびに、前日までの出来事をすべて忘れてしまう。
恋人の木南凌太(きなみ りょうた)は言った。
「これからは、俺が君の記憶になる。俺のことさえ覚えていればいい。あとは全部教えてあげるから」
そんなある日、彼の幼なじみである杉山美羽(すぎやま みゆ)が、私たちの家に住むようになった。
毎朝目覚めると、私の頬には、指の跡のような赤い腫れが残っている。
凌太は頬を撫でながら言った。
「少し肌が荒れただけだよ。薬を塗っておこう」
前腕の内側には、丸い火傷の痕がいくつも残っている。
凌太は痛ましげに火傷の痕に口づけしながら言った。
「料理中に油が跳ねたんだろう。また忘れたのか」
ある真夜中、ひどい痛みで目が覚めた。
美羽がベッドの脇に座り、指に煙草を挟んでいた。
彼女はくすくす笑いながら、その煙草の火のついた先端を私の前腕に押し当てた。
「ねえ凌太、見て。これで9つ目。明日になったらまた『これ何?』って聞いてくるんだから」
そう言って、彼女は腹を抱えて笑った。
凌太はドア枠に寄りかかり、困ったような、それでいてどこか甘やかすような声で言った。
「そんなに何か所も焼くなよ。半袖じゃ隠しきれなくなったら、言い訳がつかないだろ。
『料理中に油が跳ねた』って言い訳はもう使ったからな。次の言い訳は俺が考えておく」
美羽は甘えたような声を出した。
「だって楽しいんだもん。どうせこの子、何にも覚えてないんだし。
ほら、私の勝ちでしょ。この子、本当におめでたいよね。あなたの言うことなら何でも信じるんだから。明日、ご飯奢る約束、忘れないでね?」
凌太は甘やかすような口調で、ため息交じりに言った。
「はいはい、好きにしろよ。あんまり遅くまで遊ぶなよ」
私は目を閉じ、歯を食いしばりながら眠ったふりをした。
誰かに縋るということは、こんなにも重い代償を払うことだったのか。
私のこの症状は、ふたりにとっての単なる遊びだったのだ。
今度こそ、自分だけを信じる。
* * *
私は心の中で固く誓った。
明日目覚めたら、凌太の言葉はもう二度と信じない、と。
けれど、朝の光が目に差し込み、ベッドから身を起こした瞬間。
頭の中からは、凌太の顔と名前を除いて、昨日までの記憶がすべてきれいに消え去っていた。
視線を落とすと、前腕の内側に、9つの丸い傷痕が等間隔に並んでいる。
いつできたものか、まるで覚えがない。
ガチャリとドアが開いた。
温かいミルクの入ったマグカップを手にして、凌太が部屋へ入ってくる。笑みは変わらず穏やかだった。
ベッドの端に腰かけ、私の視線を追うように傷痕へ目をやると、そっと袖を引き下ろした。
「また見てるのか。何度言えばわかるんだ、料理中に油が跳ねただけだって。毎回忘れるんだから」
その口調には、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような、呆れた響きが滲んでいた。
「ほら見てみろ、体じゅうあざだらけじゃないか。もう会社へ半袖で行くのはやめろ。同僚に見られたら、俺が殴ったと勘違いされるじゃないか。
自分が気をつけないからだろ。後になって俺のせいにするなよ」
私は口を開きかけたが、罪悪感に押しつぶされ、言葉を飲み込んだ。
自分でやったことなのか。また彼に迷惑をかけたのか。
「ごめんなさい……」
凌太はマグカップを差し出し、私の髪を撫でながらため息をついた。
「怒ってるんじゃない。ただ、自分の身を守ることくらい覚えてくれないと困るんだ。俺だって、24時間そばにいられるわけじゃないんだから」
そのとき、リビングから女の声が響いた。
「凌太、朝ごはんできたよー」
髪を高い位置でポニーテールに結んだ女が、お皿を手にドアの前を通り過ぎていく。軽い足取りで歩き、愛嬌のある笑みを浮かべていた。
私は凌太を見た。
「杉山美羽だよ。小さい頃から一緒に育った妹分みたいなものでね、しばらくここに泊まっているんだ」
私はうなずいた。
彼女のことは、やはり覚えていない。
朝食の席で、美羽は凌太の向かいに座り、卵焼きの載った皿を彼のほうへそっと寄せた。
「凌太ったら、もっと食べてよ。昨夜も紗英子さんの世話で、ろくに眠れなかったんでしょ」
凌太は苦笑いするだけで、何も答えなかった。
私は味噌汁をすすりながらうつむいていたが、不意に左のこめかみにずきりと痛みが走った。
手を伸ばすと、指先がコイン大の腫れに触れた。
美羽の視線がこちらに向いた。
その口元が、一瞬だけつり上がった気がした。
凌太が眉をひそめた。
「腫れたところに触るな。
昨夜、自分でベッドから落ちて、ベッド脇のサイドテーブルの角にこめかみをぶつけたんだよ」
彼は箸を置いて私を見つめた。その目には、わずかに咎めるような色が浮かんでいた。
「あのとき気をつけろと言ったのに、うるさいって耳を貸さなかっただろ。ほら、俺の言うことを聞かないからこうなる」
私は首をすくめ、それ以上は何も聞けなかった。
午後になり、凌太は仕事に出かけた。
出がけに「表は車が多くて危ないから」と言い残し、外から鍵をかけていった。
私はリビングのソファに座り、ローテーブルの上の分厚いノートを開いた。
凌太によれば、これは私の「記憶ノート」だという。彼が毎日記録してくれていて、忘れてしまった前日までの出来事を知るためのものらしい。
最新のページを開く。日付は昨日。
【今日は紗英子の機嫌がよく、美羽と一緒にケーキ作りに挑戦した。うっかり油を跳ねさせてしまい、腕に火傷を負ったらしい。夜、紗英子が寝返りを打ってベッドから落ち、こめかみを打った。絆創膏は俺が貼っておいた】
字は几帳面で、文面も優しい。一字一句に気遣いと忍耐が滲んでいる。
まるで、献身的な恋人そのものだった。
私は腕の9つの丸い傷痕を撫でた。指の腹で、黒く焦げた皮膚をそっとなぞった。
油が跳ねた傷?
どうして、こんなにきれいな円形をしているのだろう。
どうして、大きさまでまったく同じなのだろうか。
その考えを、どうしても捕まえておけなかった。
頭の中で一瞬何かが閃いたかと思うと、水面に浮かぶ泡のように、形を結ぶ前に弾けて消えてしまった。
廊下の奥で、かすかな物音がした。
美羽がゲストルームのドア枠に寄りかかり、スマホのインカメラを見ながら口紅を塗り直している。
顔をこちらに向け、私をちらりと見た。
ニヤリと笑った。
その笑みの裏に何が潜んでいるのか、うまく言葉にできなかった。
ただ、背中には理由もわからないまま、冷たい汗がにじんでいた。
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