今さら私を愛しているなんてもう遅い第3話
この話は約4152字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
博人は唇をきつく結び、未央の後ろ姿を見ていた。彼の整った眉が少し歪み、心の中には何とも言えない焦りが生まれた。
なぜだか分からないが、彼はなんだか未央が以前とは少し違うと感じた。
雪乃は彼の表情をしげしげと見つめ、唇を噛みしめ恐る恐る言った。「博人、白鳥さんさっき不機嫌だったからあんなふうに言ったの?私は本当にわざと記者たちにあんなことを言ったんじゃないのよ」
博人は眉を少しひそめ、切れ長の瞳を細めた。
未央が……あんなふうにわざとふてくされたのか?
「君のせいじゃないよ、あんなやつほっておこう」
博人のその声色は氷のように冷たく、表情も冷淡だった。
彼女は西嶋家の若奥様という身分でありながら、息子のお遊戯発表会にも参加しようとしなかった。息子に意地になって雪乃を来させたのだから、その後どういう結果になろうともそれに責任を持つべきだろう。
雪乃は口角を上げニヤリと笑い、その瞳には計算高さがうかがえた。
博人と雪乃の関係はすぐに話題となり、人気検索ランキングの1位になった。
いくら博人が操作してその情報をネットから消したとしても、やはり影響は小さくなかった。
瑠莉ももちろんネットでそのゴシップを見た。
「だから……もう心を決めたって?本当にここを去って、立花に行っちゃうの!」瑠莉はネットの話題記事から目を離し、眉を驚いたようにつり上げた。「じゃ、ここにあなたがいたっていう全てを消し去るのは、今後の行方が分からないようにするためなのね?」
未央はそのネット記事に目を落とし、盗撮された写真を見つめていた。
博人と雪乃は保護者席に座って、ステージでバイオリンを弾いている理玖のほうを向いて、微笑みながらお互い見つめあっていた。
一家三人、和気あいあいとした様子だ。
息子が当初バイオリンを習い始めた頃、彼女が辛抱強く彼に付き合って少しずつ練習していき、彼が興味を失わず続けられるように一緒に努力してきたことを誰も知らない。
そして今、人々は彼女の息子が綿井雪乃の芸術的才能を受け継いでいるとまことしやかに囁いていた。
ちょうどこの時、雪乃がその記事にイイネを押した。
そしてついでにまるで真実であるかのような内容のXを投稿した。「ある人が昔私に尋ねたことがある。深く愛した人と再会したら、粉々になった鏡は元通りになるかって。そして今の私の答えはね、深く愛し合う二人はずっと強い結びつきを持っていて、わざわざ綺麗に修理する必要なんかないの」
「うん」未央は目線をもとに戻し、小さな声で言った。「私に関することは全部消し去ってちょうだい」
この都市で生きた彼女の25年という記憶を。
しかしその人生の大半は辛いものだった。
白鳥家は落ちぶれ、以前熱烈にある男を全力で愛したがそれはボロボロに虚しく崩れ去っていった。そんな過去を全て。
ここには瑠莉と空っぽになった実家を除いて、もうかなり前から彼女が恋しいと思うものなど残っていないのだ。
……
恐らく人気検索トップ記事になった騒ぎがかなり広まってしまったからだろう。
夜、未央はデリバリーを頼み、自分ではもう料理をしなかった。
以前、彼女はいつも息子と博人の健康を気遣い、何もかも全部自分でやっていた。今の彼女はもうすぐここを去る身だし、博人と息子は彼女が作った料理にいつもケチをつけていた。
それで、未央はいっそのこと博人と息子が好きなレストランを選んだのだ。
人というのはこういうものだ。
場合によっては、相手を喜ばせるために懸命に試行錯誤するより、相手の望み通りにやってしまったほうが効果がある。
彼女が心を込め時間をかけて作ったスープよりも、雪乃が予約してくれたレストランのほうが喜ばれるのと同じように。
ちょうど、西嶋家のおじいさんがネット記事のことを知って、わざわざ電話をかけてきた。
博人は電話を切って、食卓に並んだ料理を見て驚いた。
未央のほうは落ち着いた様子で説明した。「あなたと理玖が好きなレストランの料理よ。今日はちょっと用があって忙しかったし、ちょうど私も味わってみたかったしね」
博人は眉をひそめた。
そして耳元に突然祖父の言葉がよぎった。
「博人、人ってのはな、時にはどのように始まったかなんて気にする必要などないんだよ。結果とその過程を見なければならない。未央さんがお前にどう接してきたか、心の中ではよく分かっているだろう。彼女がお前と結婚してから、お前が胃の調子が悪いと知れば毎日何時間もかけて胃に優しいスープを作ってくれただろう。
彼女は小さい頃からお嬢様として過保護に育てられてきたんだ。それなのにお前のためにスープを作り、手に火傷まで負っても頑張ってくれたろ……人が一生のうちで最も恐れるものは後悔ではなく、失ってしまうことなんだ。
博人、お前と他所の女性とのことはもう過ぎ去った過去のこと。客観的に見れば分かる、最も恐ろしいのは愛しているのに、その自覚がなくて、失ってから後悔することだ。その結果は悲惨な……」
愛?
彼と未央はずっと尊重し合ってきた。彼ははっきりと彼女がやってきたのは西嶋家の若奥様という身分のためであることを分かっていて、愛なんてどこにあるのだと疑問に思っていた。
しかし、彼の目の前に並べられた美味しそうな料理を見て、博人は突然イライラとしてきた。
彼女は彼を愛しているというのに、料理でさえも自分の手で作らないのか?
それとも……雪乃の件で、まだ意地を張っているのだろうか?
理玖も同じようにその小さな眉をひそめた。彼は確かにこのレストランの料理が好きだが、母親は以前はこうではなかった。彼女はいつだって自分でご飯を作ってくれた。
今日は怒っているから母親が自分でご飯を作ってくれないのか?
彼女はどうしていつもこうなんだ。些細なことで、父親と雪乃さんに当たってくる。母親は雪乃さんのように人の気持ちを理解することができないのか?
理玖はその小さな唇をすぼめたが、それでもお利口そうに無理をして料理を食べた。
少しもせずに、食卓には博人の声が響いた。「明日……俺は雪乃の再検査に付き添ってくる」
雪乃は少し前に舞台に立った時に、足首を怪我してしまったのだ。
怪我は大したことはなかったが、それでもまだ再検査をする必要があった。
夫が自分の目の前で他の女性に付き添うと言ったら、どんな気持ちになるだろうか。それは自分で経験してみないと分からない。
未央はそんな経験をここ数年常に味わってきた。
だから彼女はそれを聞いて少しも動揺しなかった。
「ええ」
未央は適当に返事し、全く心を波立たせることなく手に持った箸を置いた。「もう食べ終わったから、他に何もなければ部屋に戻るわね」
傍にいた理玖は驚いて、無意識に言った。「ママ、僕のバイオリンの練習は?」
以前、母親はいつも彼と一緒にいて、バイオリンの練習を見てくれていたのだ。
それなのに今夜は自分でご飯を作らないどころか、彼のバイオリンの練習にも無関心だった。
未央はあのネット記事にあったコメントを思い出し、笑った。「あなたは自分一人で大丈夫よ。私なんかバイオリンのことなんて分からないもの。ここにいても迷惑をかけるだけだわ」
彼女が話し終わる前に、博人が突然彼女の腕を掴み、漆黒の冷たい瞳で睨んできた。
彼は唇をきつく結び、冷たく耐えられない様子で言った。「お前、また何を意地張ってんだ?今日のあのゴシップ記事のことは、お前だってただの誤解だと分かってるだろう。未央、当時お前は計算を尽くしてようやく俺と結婚したんだから、今はこの西嶋家の嫁という役目をしっかりと果たせよ。息子のバイオリンの練習に付き合うのがそんなに難しいってんのか?」
未央は彼のその凍てつくような深い漆黒の瞳を見つめ、突然笑いが込み上げてきた。
彼はこのように7年間も彼女に冷たくしてきた。
他所の女を自分の心の中に住まわせておきながら。
それなのに、彼女には西嶋家の若奥様という役をしっかり演じろと言うのだ。
大きな愛をもらっていた片方はその愛を大事にすることなく、逆にその愛の上にあぐらをかいている。
未央はおかしくなって笑い、ゆっくりと彼に掴まれた手をそこから離した。
「私ったら、この西嶋家の若奥様という役をきちんと演じられると思っていたわ」未央は博人を見て言った。「別に意地を張ってなんかいないわよ。それにあの記事に腹を立ててるわけでもないわ。私は本当に音楽の才能なんてないもの、理玖も私が隣で手取り足取り教えてあげる必要なんてないだけ」
息子が綿井を好きで、あのようにキラキラ輝く人生を送りたいのであれば。
彼のその願いを叶えてあげる。
彼らが彼女の作った料理が好きではなく、綿井雪乃の選ぶレストランの料理が好きであれば。
その願いだって叶えてあげられる。
以前の彼女はよくヒステリックになっていたが、それは不満があったからだ。
そして今、彼ら二人の願いを全て叶えてあげるというのだから、それのどこがいけないのだ?
未央は言い終わると、その場を離れていった。博人はその場で呆然としていた。
彼はタバコに火をつけた。彼のその黒く暗い瞳の底からは何を考えているのか読み取れない。
しかし彼は眉間にしわを寄せていた。
彼女は本当に……雪乃の件で彼と喧嘩をしたいわけではなさそうだ。
なのにどうして心はどんどん苛立ってくるのだろうか。
未央は自分の部屋に戻った。彼女はこの二日間で片付けるものは全て片付けてしまっていた。
ここを去る前に、彼女はただもう一度河本教授に会いに行きたいと思っていた。
夜。
博人はいつもとは打って変わって客間では寝なかった。
未央は体にただタオルを巻きつけた格好で浴室から出てきた。
柔らかなライトの光の下で、彼女の肌は雪よりも白く白磁のような美しさがあった。彼女のその表情には以前のような怒りや不満はなく、落ち着いていて優しく、いつも顔に出ていた高圧的な雰囲気を抑え込んでいた。
逆にもの静かで、すこし可愛げが出てきた。
前の彼女とは全く様相が違う。
博人はその場に立ちすくみ、視線を未央の体に落とし、ゴクリと喉を鳴らした。
そして、頭の中に突然、祖父が言っていたあの言葉が浮かんできた。「最も恐ろしいのは愛しているのに、その自覚がなくて、失ってから後悔することだ……」
彼が未央を愛している?
そんな馬鹿な!
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