今さら私を愛しているなんてもう遅い第2話
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男の瞳の底には嫌悪と不愉快さがはっきりと映っていた。その黒い瞳には氷のように冷たい光が宿っている。
未央は静かに彼のその目線と対峙した。
これは彼女の夫だ。しかし、彼女を見つめるその目には一度も愛情が宿ったことなどない。
「こうしちゃダメなの?」
彼女は瞼を上げて淡々とした口調で言った。「理玖はその雪乃さんに来てもらいたいんでしょう。私はこの子の母親だもの、この子をがっかりさせたくないの。それに、その日は私用事があるし」
彼女はその日、本当に用事があるのだ。
あの謎に包まれた男藤崎に彼女は診察をすると約束したが、その行動は全て秘密にしておかなければならなかった。
それで銀行カードや携帯番号など、新しい物を契約しに行く必要があるのだ。
この時の彼女はいつもとは違って全く騒がなかった。
博人は眉間にきつくしわを寄せて、彼女を睨んでいた。
以前の彼女であれば、絶対にこのようなことには同意しなかった。未央は西嶋夫人というこの身分をかなり気にしていて、自分の代わりに子供のお遊戯会へ雪乃を見に行かせるなんて有り得なかったのだ。
彼女は一体何をしようとしているのだ?
男のその黒い瞳に皮肉の色が浮かび、冷ややかに言った。「分かった、未央、後悔なんかするなよ。だったら明日の幼稚園のお遊戯会には俺と雪乃が理玖と一緒に行くからな」
一体未央がどういうつもりなのか見させてもらおうじゃないか。
博人は書斎のほうへ向かい、バタンッと書斎のドアを閉めた。
理玖は雪乃の名前を聞いて、同じように眉をひそめ、小さな大人のような様子を見せて不機嫌そうに未央を見つめた。
「ママ、これはママが雪乃さんに来てもらうって言ったんだからね。パパと喧嘩するべきじゃないよ」
彼はそう言い終わると、大真面目な態度で小さなカバンを持って自分の部屋へと戻っていった。その顔は博人にそっくりだった。
二つの部屋のドアはきつく閉じられていた。
がらんとしたリビングには未央がたった一人だけ残されていた。
この時の彼女の心はもう麻痺していて、全く心の痛みや悲しみなど湧いてくることもなく、ただただ落ち着き払っていた。
これはこれでいいじゃないか。
これで彼女も安心してここを去ることができる。
未央は幼稚園のそのお遊戯会に参加することなく、翌日白鳥家の実家に戻り、博人に関係するものを全て持ってきた。
彼女は高校生の時から博人のことが好きだった。
当時、白鳥家が没落する前のこと。彼女はまだ白鳥家の令嬢だった。そして一方的に博人に片思いし、こっそりと博人の私物を集めていたのだった。
シャツのボタン、彼が使っていたボールペン、彼の昔の満点の解答用紙……
それから彼女が昔つけていた日記帳。
それから彼女が博人と結婚してから、白鳥家の実家には一度も帰っていなかった。これらの物はずっとその実家に保管されたままだった。
家の中の様子は変わっていないが、人は変わってしまった。
未央は彼女が17歳の時からしていた馬鹿げた意気地な片思いを思い返していた。
彼女は感情面において少し不器用なところがある。
多くの場合、馬鹿で無鉄砲で、とことんまでやらないと決して諦めることがなかった。
今、過去を振り返って彼女がおこなってきた一つ一つを見てみると、本当にただの笑い話のようだった。
未央は昨日整理してきた物と一緒にこれらを屋根裏部屋に封印した。
この虹陽市(こうようし)から去れば、彼女は恐らく長い間ここには戻ってこないだろう。
この実家に彼女が以前受けた傷と失敗を保存しておいて、彼女を迷いから解き放つのだ。
未央は午後まで実家にいて、それからそこを離れた。
途中で天野瑠莉(あまの るり)が彼女に電話をかけてきて、情報消去の確認をしに来るよう伝えた。
ちょうど瑠莉の家は息子である理玖の幼稚園の近くだった。
彼女が到着した頃には、幼稚園の演目は全て終わって解散となっていた。
多くの記者たちが幼稚園の入り口にわらわらと集まって来ていて、その注目の的は博人だった。
「西嶋社長、綿井雪乃さんはあなたが長年ずっとお隠しになられていた奥様ですか?当時綿井さんは夢を叶えるために海外に行かれて、それが原因でお二人は別れたんですよね。もしかして実はお二人は結婚していたことをお隠しになられていたのでは?」
理玖が通っている幼稚園は金持ちが通う私立幼稚園で、お遊戯会のために特別にメディアを呼んでいたのだ。しかし、そこへ博人が雪乃と一緒に現れたものだから、記者たちの注目の的になってしまったというわけだ。
当時、未央と博人は裏で隠れて結婚をした。
博人は理玖の存在を全く隠すことはなかったが、この虹陽市において、その西嶋博人の妻が一体誰なのか知っている者はとても少なかった。
そして今日は博人がはじめて女性を連れて子供のお遊戯発表会に参加したのだ。
それに雪乃と博人は深い関係だ。
だから記者たちがそのような想像を膨らませるのも無理な話ではないのだ。
そう遠くないところから、未央は博人を見つめていた。
博人はかつて、彼女が西嶋家に嫁ぐために何かしらの手を使ってわざと彼の子を身ごもり、目的を達成したと決めつけた。だからずっと彼女の身分を公表したことはなかった。
そして今日、記者たちからそのような憶測が飛び、男の顔は少し冷たくなり、少し眉をひそめているようだった。
博人が何かを言おうとした瞬間、隣にいた雪乃が突然唇を噛みしめながら、本当は否定したいがそれを認めるかのように恥じらいながら言った。
「それは博人のプライベートなことです。今日私たちは理玖君のお遊戯を見に来ただけです。みなさんは子供たちのほうにご注目されてください」
その場にいた記者たちはみんな抜け目のない人間たちで、その言葉を聞いた瞬間に何かを悟ったようだった。
雪乃のこのような話しぶりは、明らかに自分が西嶋家の女主人であると主張している。
博人は眉間に少ししわを寄せ、近くにいた未央のほうを向き少し驚いていた。
この時の彼女は以前のようなノーメイクではなく、深い緑色のロングスカートに、綺麗にお化粧をして、巻いた長い髪を背中の方に垂らし、シンプルなパールの髪飾りをつけていた。
唇はとても鮮やかな赤だった。
眉をひそめたり笑ったりして、穏やかで優美な様子だった。
彼はこの時突然、当時未央は虹陽市でも噂の美人だったことを思い出した。
ただ、彼女は博人と結婚してからこのようにお洒落することがなくなったのだ。
博人の秘書はササっとやって来ると、メディアの記者たちを追い払った。
人だかりが消えていくと、雪乃も未央の存在に気がついた。
彼女の瞳は少し光り、博人と一緒に理玖の手を繋いで未央のほうへとやって来た。
この三人、完全に家族のように見える。
それとは逆に彼女は部外者のようだ。
しかし、未央はこのシーンを淡々とした様子で落ち着いて見ていた。
そしてすぐ、雪乃は耳元に少しかかる髪の毛をきれいに整えて、優雅に、またどうしようもないという困った様子で説明した。
「未央さん、ごめんなさい。さっき記者たちに質問してこられて、何か変な噂でも立てられたら困るものだから、あの人たちを帰らせるためにあんな風に言っただけなんです。未央さん、気になさらないでね」
博人は未央をじろじろと見て、眉をひそめて冷ややかな声で言った。「雪乃だって別に騒動を起こしたいわけじゃないんだ。もしお前が今日来るのを断ってなけりゃ、こんなことにはならなかったんだしな……」
理玖でさえもその可愛い顔をしかめて、ためらいながら言った。「ママ、雪乃さんだって僕たちのためにああしてくれたんだよ」
母親は今日いつもと感じが違っていて、美しく目を奪われるような姿だったが、彼が好きなのは雪乃のほうなので、母親が雪乃をいじめようとするのは許さなかった。
雪乃はその言葉を聞いて、瞳が輝き、唇をニヤリとさせた。
彼女は未央が怒って何か言ってくると思っていた。
しかし次の瞬間、未央はただ目をぱちぱちとさせただけで、突然微笑んだ。「私は別に、ただメディアが誤解して、綿井さんと理玖に何か悪い影響があったらいけないと思っただけよ」
彼女は実際この時すでに西嶋夫人という肩書きなどどうでもよかった。
偽物はただの偽物でしかない。
メディアはよく考えてみれば、気づくはずだ。雪乃の今までの行動履歴と、理玖の生まれた時期はどうもおかしいことに。
雪乃は少し驚き、隣にいた博人は眉間にきつくしわを寄せていた。心の中に湧いているおかしな違和感と焦りがさらに深くなっていた。
彼はただ彼女は昨日わざと彼を試すような態度を取っていただけだと思っていた。
しかし、それは外れたらしい。メディアが彼と雪乃の関係を誤解しても、彼女は一つも騒ぎ出すことはなかった。
未央は一体どうしてしまったのだろうか?
「言いたいことはそれだけよ。私はまだ用があるから、これで失礼するわ。綿井さん、今日はどうもありがとうございました」
未央は視線を彼らから外し、淡々とそう言うと、またちらりとわざとらしく三人家族をアピールしてきた雪乃を見た。
博人と彼女はお揃いの服を着ていた。
彼女の息子はその子供服を着ていて、顔を上げて親し気に頼り切った様子で雪乃を見つめていた。
未央は目線を下にずらした。
雪乃は未央の夫と子供が欲しいのか?
ちょうどいい。
雪乃のためにその願いを叶えてあげようじゃないか。
未央が去れば、西嶋夫人という席が空くのだから。
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