今さら愛してるなんて、遅すぎる第3話
この話は約2235字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
「冬弥!」
美雪が切羽詰まった声で俺を呼んだが、俺は足を止めることも、振り返ることもなかった。
タクシーで病院へ向かうと、今日の母はいつもより少し顔色がよく見えた。
皮を剥いたリンゴを俺に差し出し、嬉しそうに尋ねてくる。「冬弥、今日、二人で記念写真を撮るって言ってたでしょう?ちゃんと撮れた?お母さんにも見せてよ」
喉が詰まり、鼻の奥がひどくつんとした。
どう説明すればいいのか分からなかったし、何より母に真実を知らせるのが忍びなかった。
ようやく覚悟を決めて打ち明けようとしたそのとき、突然病室のドアが開き、美雪が入ってきた。
彼女はベッドのそばに腰を下ろすと、この10年間ずっとそうしてきたように、甲斐甲斐しく母の肩を揉みながら、優しい笑みを浮かべた。
「冬弥ったら、今日撮った写真が気に入らなかったみたいで。せっかくなら、ちゃんとした写真を残してから婚姻届を出したいって言うんです。それで、入籍は2日後に延ばしました。今度こそきれいに撮って、お義母さんにも必ず見せますね」
これまでずっと「おばさん」と呼んでいた美雪が、突然「お義母さん」と呼んだことに、母は目に涙を浮かべるほど感激し、俺たち二人の様子がおかしいことにも気づかなかった。
俺は険しい顔のまま美雪を病室の外へ引っ張り出した。
「俺はもう身を引くって言っただろ。これ以上、俺にどうしろっていうんだ?」
美雪はいつものように、ごく自然な仕草で俺の腰に腕を回し、ため息をついた。「冬弥、私たちは12年も付き合ってきたんだよ。今さら別れるなんて、本当に平気なの?」
平気なわけがない。
けれど、平気じゃなかったところで何になる?
彼女はもう、ほかの男の妻なのだ。
俺は目を赤くしながら彼女を突き放し、冷たく笑った。「平気だろうが平気じゃなかろうが、別れるしかないだろ。俺は人の夫婦関係に割り込むような真似はしたくない!」
背を向けて立ち去ろうとすると、美雪は自分の体で俺の行く手を塞いだ。
そして突然、感情を抑えきれなくなったように強く抱きついてきた。「でも、私はあなたと別れたくない」
小柄な体で必死にしがみつき、振りほどこうとしても離れようとしない。
「大学の頃、あなたに車を買うために貯金してたとき、バイト先のバーで悠真と知り合ったの。
あの頃の私は人見知りで、誰かと話すだけですぐ顔が赤くなるような性格だったから、よくたちの悪い客に絡まれてた。そんなとき、いつも悠真が助けてくれて、それで少しずつ親しくなって……
あるとき、たちの悪い客に薬を盛られて、ホテルに連れ込まれそうになったことがあったの。そこへ悠真が助けに来てくれて……でも薬が強すぎて、私たちはそのまま……一線を越えてしまった。
悠真とは別れようとも思った。でも、何もなかったことにして彼を傷つけるなんて、私にはできなかった。
この何年も、悠真は誰にも言えない関係のまま、私のそばにいてくれた。それでも文句一つ言わず、何かを求めることも、あなたと張り合おうとすることもなかった。ずっと我慢させてきたのは私だから、せめて結婚という形で報いてあげたかったの」
12年と8年。
それはただ、二つの関係が重なっていた年月を示す数字ではなかった。
俺が彼女からもらった車のキーを握りしめ、馬鹿みたいに喜んでいたその頃、美雪は別の男と関係を持っていた。
狭いアパートで彼女の大好物の唐揚げを作り、帰りを待っていた夜、彼女は別の男が作ったうどんを食べていた。
俺が幸せだと信じて疑わなかった数え切れないほどの瞬間。その一つひとつの裏で、ずっと裏切りが続いていたのだ。
「危ない目に遭ったとき、どうして恋人の俺じゃなく、ほかの男を頼ったんだ?
もういい!お前たちがどうやってそういう関係になったのかなんて、これ以上聞きたくない。消えてくれ!」
我慢の限界に達し、俺は思わず手を振り上げた。
美雪は恐怖に体を震わせていた。それでも逃げようとはせず、ただ静かに目を閉じた。
その姿を見た瞬間、俺の腕から力が抜けた。
疲れ切ったように、振り上げた手をそのまま下ろした。
すると美雪は、さらに強く俺を抱きしめた。
「結婚という形だけは悠真を選んだ。でも、それ以外は今までと何も変えない。悠真にしてあげることなら、あなたにも同じように……ううん、それ以上にしてあげる。
愛情も、お金も、一緒に過ごす時間も、おばさんを大切に思う気持ちも、私が悠真と結婚したからって何一つ減らさない。
そうだ。最近、海外で新しい治療薬が開発されたの。末期の胃がんにもかなり効果が期待できるみたい。冬弥、今度、一緒におばさんを連れて治療を受けに行ってみない?」
俺は力なく目を閉じた。
この12年間、美雪が俺に尽くしてくれたことだけは、紛れもない事実だった。
悠真という存在さえいなければ、きっと俺は世界で一番幸せな男だっただろう。
母は昔から体が弱く、俺はその世話に追われていた。そのせいで、美雪ほど仕事で成功できていなかったが、彼女は俺が自分より成功していないことなど一度も気にしなかった。
俺が欲しがったものは、値段など気にせず何でも買ってくれた。
俺が行きたいと言った場所には、仕事を後回しにしてでも付き合ってくれた。
母が病気になってからは、自ら進んで身の回りの世話をし、夜遅くまで医師と治療方針について話し合ってくれた。
高額な治療費も、ずっと美雪が負担している。
俺には、美雪が必要だった。
少なくとも母の治療が続いている間は、彼女との縁を完全に断つことはできなかった。
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