二人の愛は、もう遠い過去になった第1話
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誰もが知っていた。
私、高梨詩乃(たかなし しの)はかつて、城戸恭平(きど きょうへい)を救うために命を落としかけた。恭平もそれ以来、私を何より大切にし、誰もが羨むほど盛大な結婚式を挙げると約束してくれた。
ところが結婚式の3日前、私は彼と友人の会話を聞いてしまった。
「本当に秘書と新婚旅行へ行くために、式を延期するつもりなのか?詩乃さんにバレるのが怖くないのか?」
「詩乃は大ざっぱだし、俺に惚れきってる。適当に言っておけば、疑いもしないよ」
けれど彼は忘れていたらしい。
私は大ざっぱなだけでなく、一度決めたらてこでも動かない。
愛せない相手と一緒にいるつもりはなかった。
そこで、彼が秘書を連れて出張している間に名前を変え、パスポートや連絡先もすべて一新し、浜辺には靴だけを残した。
後になって聞いた話では、恭平は正気を失い、何度も海へ飛び込んでは、いなくなった花嫁を捜し続けたという。
* * *
「こんにちは。名の変更届を提出したいのですが」
職員は私を見るなり目を輝かせた。すぐに私が高梨詩乃だと気づいたらしい。
「家庭裁判所の許可審判書はお持ちですか?」
私は迷わずうなずき、用意していた書類を差し出した。
「では、こちらの名の変更届に必要事項をご記入ください。届出が受理された後は、マイナンバーカードや携帯電話の契約、銀行口座、パスポートなども氏名変更の手続きが必要になります」
窓口の脇で名の変更届を書いていると、周囲からひそひそと話す声が聞こえてきた。
「本当に城戸社長の奥さんだ。テレビで見るよりずっと痩せてる」
「半月前の海辺でのプロポーズ、ものすごく話題になったよね。まさか本人に会えるなんて。早く写真を撮って」
「私がいちばん長く推してるカップルなの。8年前、重体だった城戸社長を救うために高梨さんが輸血して、意識を失ったんだって。それで城戸社長は、彼女を目覚めさせるために病院へ医療機器を寄贈したり、基金を設立したりしたらしいよ」
「高梨さんが目を覚ましたときには、20億円分の商品券を配ったって聞いた。それだけじゃなくて、新しく発見された銀河の命名権まで大金で買って、『SHINO』と名づけたんでしょ。高梨さんが星を見るのが好きだからって」
「城戸社長は派手にアプローチを続けて、二人はもう8年も一緒にいるんだよね。カメラの前に出るたび、本当に幸せそうだった」
「どう見てもお似合いだもの。あの二人の間には、誰も入り込めないよね」
私は自嘲するように、苦く笑った。
何がお似合いなものか。
恭平が秘書の森下彩香(もりした あやか)と関係を持つようになった時点で、私たちはもう心の通じ合う二人ではなくなっていた。
半月前、恭平にプロポーズされ、婚姻届を出したその夜、彩香から一枚の写真が送られてきた。
写真の中で、彼女は誰かの胸に身を寄せていた。二人が親密な関係であることは一目瞭然だった。
【私と喧嘩さえしなければ、あなたと結婚して私に当てつけることもなかったのに】
そのときは意味が分からず、送り先を間違えたのだと思った。
けれど、彩香から送られてくる写真は次第に増え、そこに写る男の顔もはっきりしていった。
それは、結婚したばかりの夫だった。
【あのプロポーズは、もともと私のために用意されたものよ。あなたはそのおこぼれにあずかっただけ】
【見てなさい。彼はすぐに私のところへ戻ってくるから】
ぽたりと涙が紙の上に落ち、文字がにじんだことで、私はようやく我に返った。
名の変更届を提出すると、職員が記載内容をもう一度確認した。
「高梨詩乃から高梨星奈(たかなし せな)への変更で、お間違いありませんか?」
私はうなずいた。
星のように、誰にも頼らず、自分の光で輝く。そんな願いを込めた名前だった。
これからは過去を捨て、身を隠して生きていく。それでも必ず、自分の光を放つ人生を歩んでみせる。
その後、私は旅券窓口へ向かい、新しい名前でパスポートを申請した。
「交付は2週間後の予定です。受け取りには必ずご本人がお越しください」
私は迷わずうなずいた。
帰宅する途中、スマホを見ていると、人気俳優が女性アイドルにプロポーズしたというニュースが流れてきた。
コメント欄は祝福一色だろうと思ったが、実際には恭平と比べる声ばかりだった。
【あの人にはかなわないね】
【やっぱり詩乃ちゃんはいい人と結婚したよね。プロポーズなら城戸社長にはかなわない】
【今でも海辺を彩った盛大な花火を覚えてる。あの演出、城戸社長が2か月かけて勉強して、自分で考えたらしいよ】
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