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ボスの妻をやめた日第1話

この話は約2072字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

ヴィヴィアン・カーターが22歳でセバスチャン・クロスと結婚したとき、誰もが彼女を幸運だと言った。

10歳年上の彼は、絶大な権力を握るマフィアのボス。それでも結婚してからの3年間、彼が愛を注いだのはヴィヴィアンただ一人だった。

彼女の望みは何でも叶え、庇護のもとで大切に守る。どんな些細なことにも気を配る、優しい夫だった。

そして夜になると独占欲をむき出し、涙ながらに懇願しても手を緩めず、飽くことなく彼女を求めた。

――ヴィヴィアンは、自分こそが彼の愛する唯一の人間だと信じて疑わなかった。

だがある日、父が突然亡くなった。悲しみに打ちひしがれた彼女はセバスチャンに何度も何度も電話をかけたが、すべて切られた。

そして一枚の写真が、彼女の抱いていた幻想を一瞬で打ち砕いた。

夕暮れの光に包まれた街角で、3年間愛してきた男が、別の女性を抱き寄せていた。

その穏やかな顔立ちで、ヴィヴィアンにどこか似たその女性は、彼女の従妹だった。

* * *

父の葬儀に、夫のセバスチャンはとうとう現れなかった。

彼が帰ってきたのは、夜になってからだ。青白く憔悴した私の顔を見て、慰めるように手を伸ばしてきたけれど、私は顔を背けた。

「悪かった、ヴィヴィアン。急な用事ができて、どうしても片づけなきゃならなかったんだ。必ず埋め合わせをする。欲しいものがあれば何でも言ってくれ、な?」

私はしばらく黙ったあと、きれいに折りたたんだ2通の書類を彼の前に差し出した。

「じゃあ、これに署名して」

セバスチャンはほっとした顔でペンを取り、内容も確かめずに名前を書いた。私が望むことなら、何でも迷わず聞き入れるつもりなのだろう。

「君とお腹の子に必要なものは、何でも用意するよ」

私が何か言おうとしたとき、けたたましい着信音が静けさを破った。画面に表示されたのは、彼が連絡先の一番上に固定し、私には決して見せなかった名前――セリーナ。

私の従妹、セリーナ・ブルックスだった。

彼は電話を切ると気まずそうに笑い、私の額に軽くキスをした。

「ごめん、用事ができた。俺たちの子のために稼いでくるよ。次はちゃんと一緒に過ごすから」

返事も待たず、彼はコートをつかんで足早に出ていった。名残惜しむ様子は少しもなかった。

家の中は静まり返り、がらんとした空間に押しつぶされそうで息が苦しい。私はゆっくりとソファに身を沈めた。

すると、この3年間の出来事が、細かなことまで次々によみがえってきた。

セバスチャンは街中の女性に羨まれるほどに、私に優しかった。

眠りの浅い私を毎晩そばに抱き寄せ、布団を掛けてくれた。

喧嘩をすれば、どちらが悪くても、先に私をなだめて謝るのはいつも彼だった。自分の気持ちを飲み込んででも私を傷つけまいとし、私の怒りが収まるまで仕事にも手をつけなかった。

真夜中に雨に濡れた街を見たいと言ったこともある。彼は大通りを丸ごと通行止めにし、車を一台も入れず、普段は賑やかな通りを私一人のために空けてくれた。

あの頃の私は、そんなふうに大切にされることが嬉しくてたまらなかった。自分は世界で一番幸せな女だと思い、それが愛なのだと、この先もずっと彼のそばで居られるのだと信じていた。

けれど父が亡くなった日、応答のなかった数え切れないほどの電話と、街角で彼が別の女性を抱き寄せる一枚の写真が、3年間の幻想を粉々にした。

長いことためらった末、私は冷たい床から立ち上がり、屋敷の一番奥へ向かった。そこには、セバスチャンが私を決して入れようとしなかった地下室がある。

重い鉄の扉を開けた瞬間、刺すような冷気が押し寄せ、全身の血が凍る思いがした。

地下室は、隅から隅までセリーナの痕跡で埋め尽くされていた。壁には彼女の肖像画が飾られ、棚には何気ない姿を撮った写真が整然と並ぶ。垢抜けない学生時代の写真も、彼女が気まぐれに描いた落書きもあった。ドレッサーには、彼女が愛用する香水や宝飾品が、一つひとつきれいに磨かれて大切にしまわれていた。

彼が私に注いだ優しさも、甘やかしてくれたことも、望みをかなえてくれたことも、私がヴィヴィアンだからではなかった。

――それは全部、私の顔がセリーナによく似ていたからだ。

冷たさが体の芯まで染み込み、胸のあちこちが細かく裂けるように痛んだ。それでも涙は一滴も出なかった。

もう、どうでもいい。

3年間ずっと騙されていたけれど、今度こそ彼の思いどおりにはさせない。

私は電話を手に取り、国外移住の手続きを始めた。

――セバスチャン。もう二度と会わないようにしましょう。

テーブルの上から署名済みの2通の書類を取り上げると、指先が彼の筆跡に触れた。

一通は離婚協議書。もう一通は人工妊娠中絶の同意書だった。

お腹には、まだ2か月にも満たない命がいる。かつて私はこの子にすべての希望を託し、この子がいれば彼の優しさを私につなぎ留められると信じていた。

けれど今は、この子さえも馬鹿げた存在にしか思えない。

――セバスチャン。決して手に入らないモノを、生涯思い続ければいい。

これから毎年、後悔に苛まれ、心が満たされる日など一度も来なければいい。

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