スキンシップ恐怖症が治った彼氏の遅すぎた後悔第3話
この話は約2032字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
珠羽の申請を知り、指導教官はわざわざ彼女を研究室に呼び出した。
彼は彼女の成績表をめくり、ほぼ満点が並ぶ専門科目の成績にしばらく目を留めて言った。
「本当に覚悟はできているのか?これは大きな方向転換だ。それに医学部となれば、一から六年間学び直した上で、さらに臨床研修にも何年もかかるんだぞ」
それはつまり、ここ数年で積み上げてきたすべてを捨て去り、完全にゼロからやり直すことを意味している。
だが、珠羽の返答に一分の迷いもなかった。「先生、ありがとうございます。でも、決心はついています」
指導教官は何か言いたげだったが、結局は深くため息をついただけだった。
ガシャンと音が鳴り、申請書に鮮やかな朱印が押された。
珠羽はその薄い紙を受け取り、四年間没頭してきた研究分野に別れを告げた。
当初、彼女は海吏の心に少しでも寄り添い、彼の抱える痛みを理解するためだけに、迷うことなく心理学を選んだ。
幼い頃から抱いていた医学への憧れを心の奥底に封印した。
だが今は、ただ自分の夢だけを追いかけたかった。
研究棟の外へ出ると、そこで待っている海吏の姿が見えた。
彼は車の傍らに寄りかかり、白いシャツの袖を無造作にまくり上げていた。その気怠げな佇まいには、彼特有のどこか浮世離れした気品が漂っていた。
彼女の姿を認めるなり、海吏は弾かれたように背筋を伸ばした。その顔には心配と緊張の色が浮かんでいる。
「珠羽」彼は歩み寄り、穏やかな声で呼びかけた。
「用事は終わった?何度電話しても出なかったから」
珠羽は彼を見つめ、その瞳の奥に一瞬だけよぎった後ろめたさを見逃さなかった。
彼女は何も言わず、ただ静かに彼の次の言葉を待った。
海吏は彼女のまっすぐな視線に少し居心地が悪そうに軽く咳払いをすると、ポケットから二枚の招待状を取り出した。
「怒らないでくれ、俺が悪かった。今夜、面白そうなプライベートの仮面舞踏会があるんだ。
気晴らしに連れて行くよ。昨日の埋め合わせをさせてほしいんだ。どう?」
彼は彼女の手を取ろうと手を伸ばしたが、珠羽は表情を変えずに身をかわしてそれを避けた。
ちょうどその時、どこからともなく絵凛が現れ、いつものしとやかな笑みを浮かべて口を挟んだ。
「それって、あの仮面舞踏会の招待状?よければ、私が付き添って行ってもいいけれど」
海吏はほとんど気づかれない程度に眉をひそめ、冷ややかな声で言った。「今日の治療時間はもう終わったはずだ。俺たちの邪魔をしないでくれないか」
絵凛の笑顔が一瞬だけ引きつったが、すぐにまた自然な表情を取り繕った。「ええ、もちろん分かっているわ」
だが彼女はすぐに視線を珠羽に向けた。
「もしかして、珠羽さんが嫌がってるのかしら?ごめんなさい、私ったら、こういうパーティーならストレスを発散できて海吏の回復にも劇的な効果があるかもしれないとばかり考えてしまって……珠羽さんの気分を害しちゃったみたいで反省してるわ」
珠羽はそれを聞いて吹き出しそうになった。あそこまで海吏の体を気遣う素振りを見せられては、まるで自分の方が理不尽に嫉妬してわがままを言っている悪者のようだった。
珠羽はふと頷いた。「いいわよ、じゃあ一緒に行きましょう」
珠羽は思った。海吏がこの先、さらにどうやって私を傷つけてくれるのか、とことんまで見届けてやろう。
彼女自身がそう口にした以上、海吏には断る理由がなくなった。
パーティー会場のホールは照明がきらめき、様々な精巧な仮面をつけた男女が行き交っていた。
会場に入った当初、海吏は珠羽のそばに寄り添おうとしていた。
だが珠羽は彼を相手にせず、自らソーダ水のグラスを手に取ると、一人で壁際の静かなコーナーへと歩いて行った。
すぐに海吏は何人かに囲まれて挨拶を交わすことになり、絵凛はごく自然に彼の傍らへと寄り添った。
珠羽は揺れ動く人影の隙間から、その光景を静かに見つめていた。
やがてゲームの時間が始まった。
場を盛り上げるための、たわいもないお遊びのゲームだ。
そして司会者が、ひどく煽り立てるような口調で次のプログラムを告げた――
「皆様!この後の時間は息を潜めてお待ちください。ホールの照明が、完全に一分間消灯いたします!」
人混みの中から小さなどよめきと、興奮に満ちた低い笑い声が上がった。
「この一分間、どうか今一番愛している人にキスをしてください!」
その声と共に、ホール全体が瞬時に純粋な漆黒に包まれた。
音楽が男女の情欲をそそるような、甘く煽情的な旋律へと切り替わる。
珠羽はその場に立ったまま、身動き一つしなかった。
目が暗闇に慣れるにつれ、かろうじて周囲のぼんやりとした輪郭が捉えられるようになる。
彼女は無意識のうちに、海吏が先ほどまでいた方向へと視線を巡らせた。
心臓を冷たい手で直に掴まれたかのように、息が止まった。
わずかに顔を伏せる海吏と、その胸にすっぽりと収まるように体を密着させている絵凛のシルエット。
彼の腕は絵凛の腰に回され、二人はきつく抱き合いながら、唇を重ねていた。
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