インキュバスの育成ルール第2話
この話は約1570字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
廻は手元の雑巾を見つめ、呆然とした表情を浮かべた。その顔には「困惑」「混乱」「理解不能」と書いてあるようだった。
「そうだよ。もし洗い物ができないなら、床拭きとか、掃除とか、洗濯とか、他の家事でもいいから適当にやって」
彼は信じられないような様子で問いかけてきた。
「待て。あなた、俺を買ったのは……家事をさせるためなのか?」
私は瞬きをした。
「そうだけど。それ以外に何があるの?」
「……」
次の瞬間、インキュバスの喉から鳴っていたあの奇妙な音が、ピタリと止んだ。
その通り。私が廻を買ったのは、家事をさせるためだ。
この名案は、同僚の雑談を耳にした時に思いついた。
その同僚もまた、ネット通販でインキュバスを購入していたのだ。
給湯室で彼女はいつも、「うちのインキュバスったら働き者で素直なの。料理も洗濯も、家事全般を自ら進んでやってくれるし、毎晩もう死ぬほど幸せよ」と惚気けていた。
他の同僚たちがニヤニヤと怪しい笑みを浮かべる中、どこか抜けている私は、あるキーワードだけをキャッチしたのだ。
家事を手伝ってくれる!
私の目が輝いた。社畜である私は、日々の激務に追われて部屋を片付ける暇もない。おかげで家の中はゴミ屋敷寸前の惨状だった。それが結構な悩みだったのだ。
だから、家事のできるインキュバスなんて、コスパ最強じゃないか。それが、私が一番「デキる」と評判の廻をポチった理由だ。
キッチンで仏頂面のまま皿を洗っている大きな背中を一瞥し、私は快適なベッドで眠りについた。
それから一週間、この有能なインキュバス・廻は、黙々と家事をこなし始めた。
最初は少し手際が悪かったが、二日もすれば完璧に慣れてしまった。すごく賢い。
起きれば布団を畳んでくれる。顔を洗えばタオルを渡してくれる。仕事から帰れば、豪華な夕食ができている。寝る前には、ベッドを温めておいてくれるサービス付きだ。
彼の残り香と体温で温められた布団に潜り込むと、私は満足げにため息をつき、骨抜きにされた気分になる。
いい。すごくいい。さすが最高級のインキュバスだ。あまりにも実用的すぎる。
唯一の疑問は、廻がずっと鳴っていることだ。喉の奥で、ゴロゴロと。
最初は環境が変わって怯えているのか、緊張しているのかと思った。でも一ヶ月経っても、彼はまだ鳴っている。
毎晩、私のベッドの脇に座り込み、喋りもせず、一人遊びもせず。ただじっと、瞬きもせずに私を見つめている。綺麗な尻尾が床をパタパタと振っている。その姿はどこか……恨めしそうで、切なそうだ。
心配になって廻の額に触れてみた。熱い。このインキュバス、何か重い病気にかかってるんじゃ?
私は慌ててベッドの横を叩いた。
「廻、今日は床じゃなくて、私の隣で寝ていいよ」
「……ベッドで寝ていいのか?」
廻が固まる。
私は居たたまれない気持ちで彼の手を握った。
「もちろん。これからはずっと隣で寝ていいから」
許可を得た廻は、自分の布団を抱えて私の隣に横になった。
美しく冷ややかなインキュバスが、私のピンクの枕に顔を埋めている。
重力に負けて顔が崩れることもなく、その造形は立体的で美しいままだ。目の保養としか言いようがない。思わずソワソワしてきた。
ただ、彼は相変わらず喉を鳴らしているし、体温も恐ろしく高い。
「廻、今日はゆっくり休んで。明日の朝ごはんも作らなくていいから」
「だが、腹が減るだろ」
「コンビニで何か買って食べるよ」
「体に悪い。俺が作る」
彼は私を見つめている。いや、正確には私が喋るたびに動く唇を、暗く、熱っぽい瞳で見つめている。
鈍感な私は、ただただ感動していた。
ううっ。なんて健気で優しいインキュバスなの。
私が雑な扱いをしたせいで、体調を崩させてしまったのかもしれない。罪悪感に駆られた私は、思わず身を乗り出し、お詫びの印として彼の額にキスをした。
廻の睫毛が、ピクリと震えた。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)