めかし込んだのは、あなたとさよならするために第1話
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瀬戸遥(せと はるか)は、神崎奏人(かんざき かなと)のSNSの投稿写真を見つめていた。そこには、別の女性の指に輝くダイヤモンドの指輪が写っている。
彼女の指先は、画面の上を彷徨うように行き来する。
「遥、サインしてくれ。これからは俺と結奈の邪魔をしないでほしい」
奏人は離婚協議書を彼女の前に滑らせた。その瞳は、骨の髄まで凍りつくほど冷たかった。
彼女は冷ややかな笑みを浮かべ、ペンを走らせて署名した。「神崎さん、あなたとの十年、結局は無駄だったわね」
八歳になる息子の、「結奈さんがママならいいのに」という一言が、ナイフのように心を抉る。
アシスタントの策略、愛する人の裏切り……彼女は覚悟を決め、足の不自由の億万長者、桐山蒼真(きりやま そうま)のもとへ嫁ぐ道を選んだ。
「少なくとも、あの人は私に『妻』という立場をくれるから」
鏡に向かって化粧を直すが、目尻から溢れる涙はどうしても隠せない。
結婚式当日、目を赤くした奏人が、教会の外で彼女を引き留めた。「遥、俺が間違っていた。一緒に帰ろう!」
蒼真は車椅子から立ち上がり、彼女を背に庇う。「神崎さん。遥は今、僕の妻だ」
* * *
瀬戸遥(せと はるか)は神崎奏人(かんざき かなと)の投稿を見つめ、指先を画面の上で長く彷徨わせた。
画面に並ぶ言葉は、猛毒を塗った針のようだ――【運命の愛、君にすべてを捧ぐ】
写真の中で、彼の節くれだった手が別の女性の手首を掴んでいる。本来なら遥のものであるはずのダイヤモンドの指輪が、相手の指で誇らしげに輝いている。
事情など露知らず、友人からLINEが届いた。
【神崎先生の投稿、超ラブラブじゃん!奥さん、披露宴はいつ?】
遥は唇を噛み締め涙を拭うと、震える指で文字を打った。
【確かに結婚するわ。でも、相手は彼じゃない】
午前二時、奏人のアシスタントから電話がかかってきた。
「神崎先生が飲みすぎちゃって。迎えに来ていただけませんか?」
遥は冷ややかな笑みを浮かべた。
――行ってやる。ちょうどいい、十年間の青春について、けじめをつけてやろうじゃないか。
現場に到着すると、遠目にも奏人の黒いSUVが見えた。
近づくと、車が暗闇の中でリズミカルに揺れているのに気づいた。
窓ガラスは曇り、中からは女性の甘い声が漏れ聞こえてくる。
昨日のSNSに写っていた黒木結奈(くろき ゆいな)だ。
不意に、結奈が隙間から視線を上げた。その純真そうな顔に驚きの色はなく、むしろ挑発的な笑みをこちらに向けてくる。
その笑みはナイフのように、遥の胸を鋭く抉った。
遥はようやく悟った。奏人の周りの人間は、アシスタントを含め全員が結奈の味方であり、結託して自分を嵌め、わざとこの光景を見せつけたのだと。
彼女は背を向けて走り出した。ヒールの音が地面を叩き、慌ただしいリズムを刻む。
タクシーの中、窓を流れるネオンの光が目に痛い。
十年前、彼女は瀬戸家の令嬢、彼は神崎家の御曹司として、大学法学部のディベート大会で出会った。
肯定側の主弁士だった遥と、否定側のリーダーだった奏人……
試合では激しく対立した二人が、プライベートでは恋に落ち、誰もが羨むキャンパス公認のカップルとなった。
卒業後、奏人は家業を継ぐことを拒み、自力で道を切り拓くことを選んだ。その代償として、実家とは絶縁状態になった。
遥も家族の反対を押し切り、彼のために専業主婦になりながら、共に法律事務所を立ち上げた。
やがて事務所は軌道に乗り、互いの実家との関係も修復された。
息子の神崎陸(かんざき りく)も生まれた。順当にいけば、次は結婚し、一生を共にするはずだった。
しかし、奏人はいつまで経ってもプロポーズしてこなかった。
息子が一歳になった頃、遥はプライドを捨てて結婚を切り出した。
だが、彼は眉をひそめて言った。「俺は非婚主義なんだ」
今ならわかる――彼の非婚主義は、自分に対してだけのものだったのだと。
帰宅すると、室内は真っ暗で、陸の部屋からだけ微かな光が漏れていた。
彼女は声を押し殺して言った。「陸、もう遅いわよ。寝なさい」
「うるさいな!」
八歳の少年は顔も上げない。ゲームの爆音が鼓膜を震わせる。「結奈さんは一度だって僕に指図しなかった!限定スキンだってプレゼントしてくれたんだ!」
遥がスマホを取り上げた瞬間、陸は喚き声を上げて彼女を突き飛ばした。
「あっち行け!ママなんて最低だ、大嫌い!結奈さんのほうが一千倍も一万倍もいい、結奈さんに僕のママになってほしい!」
遥は雷に打たれたような衝撃を受けた。結奈がこれほどまでに深く入り込んでいたとは。
涙をこらえ、スマホを握りしめた。その声は震えているが、意志は固い。「今はまだ私があなたの保護者よ。好き勝手はさせない」
陸の泣き叫ぶ声を背に、遥は子供部屋を出た。
バスルームに閉じこもり、鏡に映る蒼白な顔を見つめながら、父に電話をかけた。
「お父さん、桐山蒼真(きりやま そうま)と結婚するわ。手配をお願い」
瀬戸隆(せと たかし)は安堵の笑みを漏らした。
「遥、よく考え直したな。桐山家の御曹司は……その、少し体に不自由があって、夜の営みは難しいかもしれないが、治療法がないわけじゃないし……」
「わかってる」
彼女は蛇口を閉めた。「少なくとも、あの人は私に『妻』という立場をくれるから」
上流階級で、遥が十年間も男に尽くして笑い者になっていたことは、誰もが知っている。
だがこれでいい。足の不自由の億万長者・桐山蒼真と結婚すれば、瀬戸グループを救えるし、奏人にも見せつけられる。
――彼がいなくても、自分は雲の上に立てるのだ。
やらない理由はない。
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