そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜第3話
この話は約2705字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
玲が階段を下りると、リビングには大勢の人が集まっていた。
その中心に立つ人物を目にした瞬間、彼女の足が止まる。
昨日、ニュースで見たばかりの顔だ。
「玲、やっと来たのね!」
真っ先に立ち上がったのは雪乃だった。彼女は強引に玲の腕を取り、少し責めるような声音で言う。
「家政婦に何度も呼ばせたのに……また寝坊でもしてたの?未来のお義姉さんを待たせるなんて、失礼にもほどがあるわよ」
そう――今日ここに突然現れたのは、他ならぬ藤原綾。昨日、弘樹が世間に公表したばかりの婚約者だ。
彼女は今日も、弘樹が記者会見で贈ったというガラスの靴を履いていた。
遠目には気高い白鳥のように見えるが、丸い瞳と可憐な顔立ちが、どこか幼さも残している。
その隣には淡い色のスーツに身を包み、金縁の眼鏡をかけた弘樹が座っている。その瞳がレンズの奥に隠れて感情は読みにくいが、雪乃が「未来のお義姉さん」と口にしても、彼は否定の言葉を挟まなかった。
するとすぐに、綾が照れくさそうに微笑んだ。
「雪乃さん、全然大丈夫ですよ。弘樹さんはさっきからずっと一緒にいてくれたんです。それだけで私は十分嬉しいですから」
柔らかな声でそう言ったかと思えば、次の瞬間には玲に視線を向ける。
「でも玲さん……どうしてこんなに遅れたの?私たち、ずいぶん待ったのよ」
さっきまでのはにかみとは一転して、遠慮のない口ぶりだった。
その対比に、周りの人々も思わず目を見張る。
――さすが藤原家の令嬢、という声が心の中で広がっていった。
玲は冷たい指先を握りしめ、笑みを作った。
「……遅れてすみません、藤原さん」
「謝るだけじゃ誠意が足りないんじゃないの?」
綾はすぐさま弘樹に向き直り、甘えるように言った。
「高瀬家は初めてだし、玲さんに案内してもらいたいわ」
そう言いながら立ち上がり、玲の腕を当然のように取る。
初めて高瀬家を訪ねた客人、しかも将来の奥様が望んでいるのだ。断る理由など誰にもない。
ただ、玲には無理があった。怪我を抱えた足では、屋敷中を歩き回ることなど到底できない。さっき階段を降りる時だって、玲は必死に表情を繕っていたが、歩き方のぎこちなさは隠しきれなかった。
綾が気づいていないのか、それとも気づいたうえでわざとそうしたのか、玲にはわからなかった。
断ろうと口を開くより早く、弘樹の声が響く。
「玲、綾がお願いしてるんだ。案内してやってくれ」
その声音は穏やかで、しかし逆らえない圧を帯びていた。
胸の奥に鋭い痛みが走る。どうして、そんなことが言えるの?
玲が弘樹に振り向いたときには、綾が歓声を上げていた。
「やった!ありがとう、弘樹さん!」
彼女は玲の手を強く引き、楽しげに庭へと駆け出す。
高瀬家の庭園は著名なデザイナーが手がけたもので、人工の池や岩組み、四季折々の植栽が広がり、ひと回りするだけでも三十分はかかる広さだ。
玲は数分歩いただけで、すでに額に汗を浮かべていた。
昨夜から疼き続けていた足は、すでに包帯の下で血が滲み、痛みは全身に広がっていく。
けれど綾は気づきもせず、ひたすら喋り続けた。
「玲さんって、お母様の再婚で高瀬家に来られたわよね?ちょっと気になってたんだけど、ご両親はどうして別れたの?」
「……父は、私が七歳のときに事故で亡くなりました。その後、母が茂さんと出会って、それから再婚したんです」
「そうなのね、じゃあ、ある意味災い転じて福となすって感じかな?」
綾はあっけらかんと言う。
「だってお父様は亡くなったけど、こんなに立派な家で育って、みんなに大事にされて。十分幸せじゃないの?
それにね、私なんて小さい頃から母に厳しく育てられて、やっと今は会社で部長を任されてるの。でも玲さんは……彫刻専攻なのに、卒業の後ろくに作品も出さずに、ギャラリーでボランティアしてるくらいでしょう?
そうそう、弘樹さんと出会ったのも、仕事でご一緒したのがきっかけなの。毎日肩を並べて頑張ってたから、惹かれあったのよ。
もし私が玲さんみたいに家にこもってたら、きっとこんなご縁なんてなかったと思うの」
綾がにやにやしながら話すと、玲の胸に、痛みとは別の熱がこみ上げた。
「……」
「玲さん、もしかして怒ってるの?」
綾はわざとらしく首をかしげ、玲を上から下まで眺め回す。
「大丈夫よ。あなた、実力はないけど顔は悪くないものね。うちの兄も、あなたには借りがあるんですって?」
――うちの兄。
綾は名前こそ出さなかったが、玲はあの人物のことを思い出す。
綾の兄、藤原秀一(ふじわら しゅういち)。
家の後ろ盾がなくても、常に頂点に立ち続ける冷徹な男。
彼と出会ったのは、弘樹と同じ幼少期だった。その頃、ほんの些細なきっかけで彼を助けたことがあり、それを彼はいまだに覚えているのだ。
玲にとって、あれは取るに足らない出来事で、恩を売る気もさらさらなく、むしろ一生口にしないと決めていた。
けれど綾は、彼女のことを徹底的に調べ上げたらしい。
玲は足を止め、綾に問いかける。
「……藤原さん、あなたはいったい何が言いたいんですか?」
「別に。ただ不思議に思っただけ。どうしてみんな、玲さんばかり大事にするのかなって」
綾は尖った声でそう言うと、突然しゃがみ込み、足元のガラスの靴を脱ぎ捨てた。
「もういいわ。私はここで水遊びがしたいから、あんたは戻っていいわよ」
まるで下僕を追い払うような調子で言うと、綾は池に歩み寄り、つま先で鯉を引き寄せようとした。
玲は黙ってその場に立ち尽くし、視線を芝生に転がる靴に落とす。きらめくクリスタルの輝きが、ひどく虚しく映った。
彼女はそれ以上振り返らず、足を引きずりながら屋敷の方へ歩き出した。綾とは、なるべく距離を取ったほうがいいと、彼女の勘がそう告げている。
部屋に戻った玲は、震える手で包帯を解いた。案の定、傷口は再び開き、真っ赤な血が布を染めていた。
目の前が暗くなりそうな痛みに耐え、何度も深呼吸しながら再度手当てをする。
だが、ようやく落ち着いたところでノックの音が響いた。
今度は雪乃の声だ。
「玲!大変よ、藤原さんのガラスの靴が盗まれたらしいの!すぐに降りてきて!」
……どういうこと?
呆然と立ち上がり、ドアを開ける。
「あのガラスの靴が?でも……どうして私に?」
雪乃は血相を変えて言った。
「どうしてって、あんたしかいないじゃない!
あの靴は弘樹さんが藤原さんに贈った大事なものなのよ。さっき庭を案内してたのはあんただけなのに、途中で勝手に切り上げて戻ってきたでしょう?そのあと靴がなくなったのよ!」
雪乃は声を荒げ、まるで犯人を前にしたように指を突きつけた。
「とにかく靴を返して!それから綾さんに頭を下げて謝りなさい!」
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