そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜第2話
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弘樹は、ロイヤルホテルから戻ってきたばかりだったのだろう。
玲の小さな部屋に立つ彼は、まだ真っ白な高級スーツを脱いでおらず、遠目にも品のある佇まいが際立っている。
穏やかな顔立ちはまるで絵から抜け出した人物のようで、十三年前と変わらぬ、ひと目で人を惹きつける魅力を放っていた。
だが玲にとって、この日、初めて彼がとても遠い存在に思えた。長い日々を共に過ごしてきたはずの恋人なのに、その姿が、見知らぬ人のようだった。
怪我を負い、疲れの色が顔に滲む玲を目にした瞬間、弘樹の眉間にわずかな皺が寄った。
「どうしてこんなことに?」
玲はドアノブを握る手に力を込めたまま、その場で立ち止まった。
「今日、ギャラリーの手伝いに行ったけど、ちょっとした事故があって……」
「病院には行ったのか?」
「ええ、処置は済ませたわ」
「そうか、午後あれだけ俺に電話をかけてきたのは、この件だったのか。悪かったな、次からは秘書をつけるよ。
それと、ギャラリーの手伝いはもうやめたほうがいい、危ないからな」
弘樹は眉間を軽く押さえ、低く落ち着いた声でそう告げた。その音色にはかすかな気遣いが混じっていて、まるで昔と何も変わっていないかのようだった。
けれど玲にはわかっていた。
もう、すべてが変わってしまったのだと。
昔なら、足首の怪我どころか、指先の小さな切り傷でさえ、弘樹はすぐに駆け寄って確かめ、傷薬を塗ってくれた。
それなのに今の彼は、ただ遠くから彼女を見ているだけ。謝罪の言葉すら、どこか上の空だった。
そして、距離を隔てても、彼のスーツに染みついた甘ったるい香水の匂いが、玲の鼻腔を刺激した。
それは他の女のもので、二人が甘いひと時を過ごしたことの証拠だ。
そのとき、玲の胸の奥に複雑な感情が広がって行った。
彼女は唇を引き結び、まっすぐ弘樹を見据える。
「弘樹さん、私たちのこの三年間って……いったいなんだったの?私はあなたにとって、いったい何なの?」
「玲、お前はいつだって俺の家族だ」
短く視線を落とした後、弘樹は続けた。
「ニュースを見たんだろう。隠すつもりはない。俺は藤原家の令嬢と婚約するつもりだ。高瀬家の跡取りとして、釣り合う相手と結婚するのは俺の責任だからな。
でも安心してくれ。結婚しても、お前との関係は変わったりしないさ」
「……」
玲が沈黙し、部屋の空気も、一瞬にして凍りついた。
治療で麻痺していたはずの足首が、再び鋭く疼きだす。
その痛みは足から胸へ、そして心臓へと広がり、呼吸さえ奪った。
そして次の瞬間、玲は声をあげて笑った。
「ふふ……それはつまり、この三年間、私たちは付き合ってたわけじゃなくて、不倫をしてたってこと?
私はあなたの彼女ではなく、ただの愛人で、これからもあなたの結婚生活に寄り添う都合のいい女でいろってこと?」
弘樹は黙って彼女を見つめた。そして、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
足元がぐらりと揺らぎ、玲は壁に手をつく。
純粋で美しいと思った初恋が、彼の中ではこんなにも穢れたものだったなんて。
でも、弘樹は玲を騙せても、玲は自分を騙せない。
「そんな条件、受け入れられるわけがないわ」
涙を拭い、玲はまっすぐ立ち上がる。その瞳の奥には静かで強い光が宿っていた。
弘樹は一瞬沈黙し、ゆっくりと口を開く。
「じゃ……どうしてほしい?」
「選んで。私か、婚約か。どちらか一つだけよ」
玲ははっきりとそう言った。
その言葉に弘樹は眉を顰めた。柔らかかった雰囲気が、じわりと冷たい圧力に変わり、彼は一歩一歩と玲に近づく。
「もし俺が婚約を選んだら、お前は俺と別れると?」
「ええ。私を選ぶなら、これからどんな困難があっても、三年前と同じように支えるわ。でも婚約を選ぶなら、私たちの関係が終わり。私は自分の人生を取り戻すし、あなたの結婚生活も祝福してあげる」
玲は弘樹を愛しているが、尊厳を捨てるほど惨めな女じゃない。
藤原家の令嬢と、並び立つ気はない。
これは、彼に与える最後の機会だ。
弘樹の顔に、深い影が差した。
沈黙がしばし続き、ようやく彼は口を開く。その声は彼女を気遣う響きを帯びていたが、告げられた内容はあまりにも残酷だった。
「……本当に、それでいいのか?
別れるのは構わない。だが、結局いちばん傷つくのはお前かもしれない。
今は高瀬家に身を置いているが、お前は高瀬家の娘でもなければ、俺の妹でもない。上流の世界じゃ、お前のような立場の人間は、どこにも居場所なんてないんだ。
だが俺は違う。俺にはいくらでも選択肢がある。
それに……お前は俺を愛してる。たとえ周りがみんな冷たくしても、実の母親に見放されたとしても、俺だけはお前の味方だ。
……それでも、別れる覚悟があるのか?」
弘樹の声は残酷なほど冷静で、まるで人間界を見下す神のようだった。
彼は信じていた。玲が自分と別れるわけがないと。
しかし、たとえ全身が凍えるように冷えきっていても、玲は震える手で、力の限り彼の頬を打った。
弘樹は避けなかった。
顔が横に弾かれても、表情は微動だにしない。ただ、その拳の甲に青い血管が浮かび上がった。
そのとき、部屋に甲高い悲鳴が響く。
「な、何してるの玲!弘樹さんに手を上げるなんて!」
ちょうど雪乃が果物を盛った皿を手に、部屋へ入ってきた。
目に飛び込んできた光景に、彼女は皿を机に置くなり、心配そうに弘樹の頬を覗き込む。
「社長の顔に傷をつけるなんて……もし誰かに見られたらどうするの!
まったく、あれほど口を酸っぱくして言ってきたのに……どうしてまだわからないの?」
雪乃は怒りを募らせ、今にも玲を叩こうと手を振り上げたが、その手首を弘樹が掴んだ。
弘樹は雪乃の瞳をまっすぐに捉え、穏やかさの奥に確かな力を宿した声で語りかけた。
「大丈夫だ、雪乃さん。さっきのは冗談みたいなものだ。父には俺から話すよ」
「あ、そうだったの。私ったら心配で、つい……」
雪乃にとって一番の懸念は、夫の機嫌を損ねることだ。
弘樹の言葉に少し安心したが、それでも釘を刺すように言葉を重ねた。
「若い人のことに口を挟むつもりはないけど、あんたも玲も、もう立派な大人よ。少しは周りの目を気にしなきゃ。
あ、誤解しないでね。弘樹さんのことを信頼してないわけじゃないの。
ただ、もうすぐ藤原家のお嬢様と婚約するんでしょう?お父さんも認めた結婚相手よ。うちの玲なんて、あの方の足元にも及ばないし、ましてや玲を好きになるなんて考えられないでしょうから」
弘樹は何も言わず、ただ玲を一瞥して部屋を出た。
雪乃も果物の皿を持って続き、玲の怪我した足に気づくことすらしなかった。
遠ざかる二人の背中を、玲は無言で見送り、そして小さく笑った。
――やはり、一番近しい人にこそ、一番深く傷つけられるのだ。
……
その夜、玲は鍵をかけ、病院からもらった鎮痛剤を飲んで眠ろうとした。だが結局、一晩中痛みにうなされ、汗で全身を濡らし、ようやく明け方に眠りについた。
しかしまもなく、ドアを叩く音が響き、家政婦の声が聞こえた。
「玲様、お客様がお見えです。奥様が応接されています。弘樹様が、お手伝いをお願いしたいと」
「……」
玲は天井を仰ぎ、眉をひそめた。
怪我を抱えたままでも、もてなさなければならない客など、本当にいるのだろうか。
そんな疑問を抱く間にも、催促の声はしつこく響き続ける。
痛みに耐えながら、足を引きずってリビングへ向かう。
そして、階段を降りたその瞬間――玲は、その場で凍りついた。
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