さよなら、私の命を救った裏切り者第3話
この話は約2247字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
私は悲哀に満ちた笑みを浮かべた。「ねえ。私が胃の切除手術を受けたあの日、あなた、どこで何をしていたか覚えてる?」
司朗は言葉を失い、後ろめたそうに視線を逸らした。
私は小さく溜息をつく。「佳雪の正社員登用を祝って、彼女の隣で花火を見ていたのよね。違うかしら?」
「……誰に聞いたんだ?」
「それが、今更そんなに重要なこと?」
司朗は重苦しいため息を吐き出すと、もどかしそうに目を閉じた。「……率直に言え。どうすれば君の気が済むんだ?佳雪に子供を諦めさせればいいのか?」
この期に及んで、彼はまだ私が単に「嫉妬して拗ねている」だけだと思っている。
私は深く煙草を吸い込み、立ち昇る煙越しに淡々と言った。「財産分与の案、あなたが決める?それとも、私に決めてほしい?」
――パタン、と乾いた音を立てて司朗が出て行った。結局、彼は最後まで財産の話をうやむやにしたまま、現実から逃げ出した。
その時、指先に焼けるような鋭い痛みが走った。熱さに息を呑んだ瞬間、堪えていた涙が、その痛みを利用するかのように堰を切って溢れ出した。
短くなった煙草の火が、指を焼いていた。吸い殻が床に落ち、火を失った灰が、私たちの関係のように虚しく四散していった。
スマホのバイブ音が鳴った。佳雪からの「宣戦布告」だった。
【琉叶さん、私、司朗のためにこの子を産むことに決めたよ】
……なんとも健気で、ご立派な覚悟だこと。
その文字を眺めているうちに、意識がふわりと遠のき、かつての自分を思い出していた。
十歳の時に児童養護施設に入り、そこで司朗に出会った。
二歳年上の彼は、端正な顔立ちで機転が利き、施設長のお気に入りだった。
他の子供たちは施設の門を一歩も出ることを許されなかったが、司朗だけは例外で、自由な外出が認められていた。
施設に来たばかりの私は、誰とも馴染めず、周囲からは疎まれていた。
そんな孤独な私に唯一、救いの手を差し伸べてくれたのが司朗だった。
司朗は外出するたびに、私を元気づけようと飴を買ってきてくれた。
私の髪が伸びてくると、いつも丁寧にポニーテールに結んでくれたのも司朗だ。
それ以来、私の髪を結ぶのは、いつだって司朗だった。
ある時、他の女の子が羨ましそうに「私にも結んで」と司朗にねだることがあった。けれど司朗は、真っ直ぐに私の方を見て、こう問いかけた。
「琉叶がいいって言うなら、してあげてもいいけど。どうかな?」
肯定も否定もしないまま、私は不満を露わにしてその場を駆け出した。
司朗が私を見つけ出した時、私はまだ一人でむくれていた。彼は私の頬を優しくつねった。
「琉叶、嫌ならどうして言ってくれないの?」
「私が言ったら、あの子の髪、結ばないでいてくれる?」
「君が言わなくても、結局結ばなかっただろう?琉叶一人だけにしかしないよ。いいかな?」
そうして少しずつ、私は彼に依存するようになっていった。
けれど、平穏な日々は長くは続かなかった。十三歳の時、施設から子供たちが一人、また一人と姿を消していることに気づいた。
里親に引き取られたという話は一度も耳にしない。
そして司朗もまた、重い沈黙に支配されるように、何かに怯え、塞ぎ込みがちになっていた。
ある日、司朗がひどい熱を出した。私は居ても立ってもいられず、施設長のもとへ走った。
そこで目にしたのは、虚ろな目をした少女が部屋から運び出される光景だった。
彼女の体は傷だらけで、股の間からは血が流れている。そのまま、彼女は裏庭の花壇へと埋められた。
恐怖で頭が真っ白になり、悲鳴が喉に張り付いて出てこない。
あそこの花が異常なほど鮮やかに咲き乱れていた理由。司朗が決して私を近づけようとしなかった理由。そのすべてを、私は最悪な形で悟ってしまった。
だが、私はすでに施設長に目をつけられていた。
「薬が欲しいなら、ここで服を脱げ」
怖くて、震えが止まらない。今すぐこの場から逃げ出したい。けれど、司朗は今も苦しんでいる。薬がなければ、彼は死んでしまうのだ。
不幸中の幸いと言うべきか、施設長は一本の電話に呼び出され、部屋を後にした。
私は引き出しをひっくり返し、ようやく解熱剤を見つけ出した。けれど、必死の思いで部屋を飛び出した私の目に飛び込んできたのは、施設長の部屋の前に立つ司朗の姿だった。
彼の目は真っ赤に血走り、青ざめた唇は一直線に結ばれている。
彼があれほど激しい怒りを見せたのは、あの時が初めてだった。
その日、司朗は私に問いかけた。「逃げたいか?」と。
途切れ途切れの声で、私は問い返した。
「もし……捕まったら……どうなっちゃうの?」
「警察にはもう告発の手紙を出した。でも、それがちゃんと届いているのかなんて、分からないんだ。琉叶、施設長はもう君を狙ってるんだ。逃げなきゃ、二人ともここで殺される」
彼は長い時間をかけて練り上げたという、とっておきの脱出ルートを私に示した。
私たちは夜の闇に紛れて森へ飛び込んだ。鋭い枝が肌を切り裂いても、痛みを感じる余裕さえなかった。
極限状態のアドレナリンが全身を駆け巡り、立ち止まることなんて到底できなかった。
森の中に潜伏して三日。司朗の熱は上がる一方で、意識も混濁し始めていた。
「もう、ここが二人の死に場所なんだ」そう覚悟を決めた私は、泣きじゃくりながら、来世でもまた必ず出会いたいと、何度も何度も彼に語りかけた。
泣き疲れて絶望の淵にいたその時、数人の警察が現れた。
私はまたしても救われた。
あの施設は警察の手によって解体され、施設長をはじめとする関係者たちは一人残らず捕まった。
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