さよなら、私の命を救った裏切り者第1話
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会社の親睦会の最中、長谷司朗(はせ しろう)は私のヘアゴムを女秘書に貸した。私はそれを見て、迷うことなく自分の結婚指輪を外すと、同じように彼女へと差し出した。
その光景を目にした司朗は、怒りを通り越して冷笑を浮かべた。
「たかがヘアゴム一つで、そこまで目くじらを立てるのか?
俺の周りに、異性の友人が一人もいちゃいけないっていうのか?
結婚指輪まで投げ出すなんて……本当に俺と別れたいみたいだな」
私は彼を見つめ、静かな口調で答えた。「ええ、その通り。もう、あなたとはやっていけないわ」
* * *
会社の親睦会の最中、長谷司朗(はせ しろう)が一眼レフを構えて、斉藤佳雪(さいとう かゆき)の写真を熱心に撮っているのが見えた。
興に乗った同僚たちが「私たちも撮って!」とせがむのを、司朗は苦笑いでさらりとかわした。
「悪いな。このカメラは琉叶専用なんだ。他の人の写真は撮らないことにしてる」
羨望の眼差しを向ける社員たちの傍らで、佳雪は、どこか気まずそうな表情を浮かべた。
無理もない。彼が口にした「琉叶」とは、私、佐藤琉叶(さとう るか)のことだったのだから。
司朗は口にした瞬間に失言だったと悟ったらしい。微かに眉を寄せ、佳雪の居心地の悪さを取りなそうと言葉を継ごうとした。
だが、社員たちはすでに勝手に納得し、盛り上がっていた。
「佳雪さん、幸せすぎますよ。社長のカメラに収まるなんて、それだけで特別扱いです」
「佳雪さんは綺麗だし、社長とは本当にお似合いです」
その言葉は無数の棘となり、私の心臓の奥深くまで突き刺し、じわじわとした痛みが広がっていく。
私の姿に気づいた瞬間、社員たちは一様に口を噤んだ。それぞれの顔に複雑な色が浮かび、その場の空気が一気に凍りつく。
佳雪は、殊更申し訳なさそうに身を縮めて謝ってきた。「すみません、琉叶さん。社長がカメラを持っていらしたので、つい甘えて撮っていただいちゃって……どうか、怒らないでくださいね」
私が答えるより先に、司朗が淡々と言い放った。
「写真を数枚撮っただけだ。そう怒るようなことじゃないだろう?
さあ、次の場所へ行くぞ」
移動中も、佳雪はずっとはしゃぎながら写真を見せてほしいとせがんでいた。
彼女は人目も憚らず司朗の腕に絡みつき、今にもその懐に溶けてしまいそうなほどの距離感で寄り添っている。
司朗はカメラを操作しながら、穏やかな顔で彼女と談笑していた。その姿は、どこからどう見ても、絵に描いたような睦まじい恋人同士そのものだった。
その様子を見ていた社員が、堪えきれないといった風に羨望の溜息を漏らす。
「社長は冷徹だって聞いてたけど、噂なんてあてにならないわね。あんなに細やかで優しい人だったなんて。
琉叶さん、本当に羨ましいわ。あんなに素敵な旦那様がいるなんて。うちの無神経な夫も、爪の垢でも煎じて飲んでほしいくらいよ。
容姿も財力もあって、その上あの優しさ……もう、完璧すぎて反則よね」
私は自嘲気味に口角を上げ、バッグの持ち手を握る手に、思わず力を込めた。
以前の司朗は、他人に触れられることを何よりも忌み嫌っていた。
たとえ不意に指先がかすめただけでも、露骨に不快な表情を浮かべては、触れられた箇所を執拗に拭き清める。
ひどい時には、その服を二度と着ようとせず、その場に捨ててしまうことさえあった。
それは潔癖症などではなく、純粋な他者への拒絶だった。
彼の領域に無遠慮に踏み込むことが許されていたのは、世界中で私だけだったはずだ。でも今、その特権を持つ人間が、もう一人増えたらしい。
「ねえ琉叶さん見て、社長が佳雪さんの髪を結ってあげてるよ。手つき、すごく慣れてるよね。もしかして家でも、いつもあんな風に琉叶さんの髪を結ってあげてるの?」
社員は興奮を隠しきれないといった様子で、すっかり「理想のカップル」でも拝むかのような顔をしていた。
だが、私が無表情に前方を見据えたまま立ち尽くしていることに気づき、彼女はようやく何かがおかしいと察したようだった。
まともな夫が、妻以外の女の髪を、これほど甲斐甲斐しく結ってやるはずがないのだ。
間違いなく私のものだったはずのヘアゴムが、これ以上ないほどしっくりと佳雪の髪を束ねている。
それを見つめているうちに、ふと、司朗という男も、所詮はその程度の存在だったのだと気づかされた。
これまでの歳月が彼を美化し、私の瞳に「特別」というフィルターをかけていただけ。彼は最初から、他の男たちと何ら変わりはなかったのだ。
佳雪はスマホの画面を鏡代わりにして、うっとりと自分の姿を眺めていたが、やがて弾むような足取りで私の元へ駆け寄ってきた。
「琉叶さん、社長って髪を結ぶのが本当にお上手なんですよ。琉叶さんはショートにされてしまって残念ですけど、でも大丈夫です。これからは私が代わりに練習台になりますから。社長の腕が鈍らないようにいたしますね。……よろしいでしょうか?」
満面の笑みを浮かべる彼女の瞳の奥には、隠しきれない優越感が渦巻いている。
佳雪の今の髪型は、私が短く切り落としてしまう前の長さに驚くほどよく似ていた。結い上げれば実によく映えるその長さを、私自身、本当はとても気に入っていたのだ。
だがある夜の情事の後、司朗が突然「ショートヘアの君が見たい」と言い出した。
だから私は、翌日には迷わず髪を切りに行った。
今にして思えば、あのヘアゴムには、すでに新しい主が決まっていたのだろう。
司朗は私に鋭く一瞥すると、何でもないことのように言い放った。
「佳雪が暑がっていたから、ヘアゴムを貸してやっただけだ。
琉叶、そんなつまらないことで目くじらを立てるなよ」
私が顔を上げると、視線がぶつかった。司朗は一秒もしないうちに目を逸らした。
どうやら、このヘアゴムが私たちにとってどんな意味を持っていたのか、彼はまだ覚えているらしい。二人の歩んできた過去を、完全に捨て去ったわけではないのだ。
それでも彼は、あえて裏切りを選んだ。
私は指先から指輪を抜き去ると、それを佳雪の薬指に、突き立てるように嵌め込んだ。その瞬間、心臓を鷲掴みにされたような、締め付けられる痛みが走る。
「この指輪は五年前、司朗が私に贈ってくれたもの。今は彼の代わりに、あなたに差し上げるわ」
司朗が弾かれたように顔を上げた。信じられないものを見るような眼差しで、私を凝視している。
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