さよならの記念日第3話
この話は約2173字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
口だけが勝手に動いているのに、何を食べてもまるで砂を噛んでいるみたいで、味がしなかった。
玲央は連中と大声で盛り上がりながら、隣の美月にだけは細やかに気を配り、お茶を注ぎ、皿を替え、店員よりも忙しそうに世話を焼いている。
まるで、隣のテーブルに婚約寸前の私が座っていることなんて、最初から存在していないみたいだった。
私は冷めた目で眺める。玲央は普段、身の回りのことに無頓着な男だ。まして私に取り箸を伸ばしたり、カニの殻を剥いたりする発想なんて、最初からない。
それが今はどうだ。玲央はカニの身を丁寧にほぐしながら、美月に笑って聞いた。「もう一杯いく?」
俯き加減に笑い合う二人の息の合い方が、やけに眩しくて、目に刺さる。
指を折って数えてみても、玲央は一度だって私に同じことをしてくれたことがない。頼めば返ってくるのは、苛立った声だけだ。「手ぇ付いてんだろ。自分で剥けよ」
それでも言い返せば、玲央は人前でも平気で不機嫌な顔を作り、私を面倒な女に仕立てる。
視界の端で、美月が得意げに口角を上げた。胸の奥が、ずしりと重く沈む。
覚悟はしていたはずなのに、目の前で見せつけられると、胸がぎゅっと締めつけられる。
私の様子がどこか強ばっているのに気づいた悠斗が、しばらく玲央の手元を眺めてから、軽く笑って茶化した。「おい、玲央。少しは公平にしろよ。日和にもちゃんと注いでやれ。あとでひいきしてるって言われるぞ」
玲央はようやく私をちらりと見て、気だるそうにグラスへ水を足そうとする。
私は先にグラスを取り上げた。「いらない」
玲央の動きが止まる。何かを思い出したように、今度は横にあったオレンジジュースを手に取って注ごうとした。
私は目を上げ、淡々と言い切る。「それも、いらない」
続けて拒まれるとは思わなかったのか、玲央の顔に一瞬だけ戸惑いが走った。私の空気を察した悠斗が、間に入るように近づいてくる。「じゃあ、何がいい?言ってみ」
私は背筋を伸ばし、グラスをテーブルに戻して静かに答えた。「玲央からのものは、全部いらない」
その言葉が落ちた瞬間、個室の空気が一拍、止まった。
美月がすぐに玲央の袖をそっと引く。「玲央くん……日和さん、怒ってるのかな。ごめんね。私が隣に座ったのが悪かったのかも」
言い方がうまい。まるで私のほうが、理不尽に怒りをぶつけているみたいだ。
私はバッグを手に取り、悠斗に軽く頭を下げた。「ごめん。さっき会社から連絡が入って、急ぎの契約書があって。戻らないといけないの。埋め合わせはまた今度するね」
そう言いながら玲央の横をすり抜け、そのまま振り返らずに出て行こうとした。
「日和、お前さ。昨日、玲央が美月とラブソング歌ったことで怒ってんの?」
悠斗が眉を上げ、面白がるように笑う。
「それ、さすがに器ちっちゃくね?」
そこへ美月が口を挟んだ。「昨日はみんなが煽ってただけだよ。そんなの気にしないで。日和さん、ごめんなさい……私、謝る」
困ったように、でもどこか無垢な顔で玲央を見上げる。まるで、私にいじめられている被害者みたいに。
玲央は案の定、美月を引き寄せて腕の中に庇い、やさしい声で言った。「謝らなくていい」
それから私に向き直り、冷たい声で吐き捨てる。「歌を一曲歌っただけだろ。なんで謝らなきゃいけねえんだよ」
私は玲央を見て、それから彼の胸に収まっている美月を見た。
美月の瞳の奥には、含みのある笑みがはっきり浮かんでいる。嘲りなのか、見下しなのか――もう隠す気もないらしい。
私は視線を落とし、胸の奥がさらに沈んでいくのを感じた。
玲央は、自分が悪いなんて一度も思わない。私が少しでも強く言えば、決まってこう返してくる。「美月は愛情に飢えてる子なんだ。お前がいちいち目くじら立てるなよ」
――私のほうが、二つも年下なのに。
私は息を吸い、無理やり笑った。「じゃあ、これからもたくさん歌えばいいよ」
そう言い捨てて、玲央の横を押しのけるように通り過ぎ、外へ出た。
背中で、美月の甘えた声が聞こえる。「玲央くん、日和さん行っちゃった。追わないの?」
「放っとけ。明日になりゃ、勝手に戻る」
夜風が強く、目に溜まっていたものが勝手にこぼれ落ちた。
冷たい手で頬を乱暴に拭う。こんなふうに擦れば、胸の奥の鋭い痛みまで削れる気がして。
五年も一緒にいたのに、どうしてこんなところまで来てしまったのだろう。
髪が風に揺れる。頭の中のぐちゃぐちゃと同じ揺れ方で、余計に苦しい。視界の端では、街角のカップルがふざけ合いながら、互いに串だんごを食べさせ合っていた。
足が勝手に屋台へ向かい、私も一本買ってしまう。口に運ぼうとしたとき、耳の奥で玲央のいつもの声がよみがえった。
「甘いの好きだよな。年取ったら歯にくるぞ。控えろよ」
ひと口かじると、舌先には確かに甘さが広がるのに、喉の奥の苦さは、どうしても消えなかった。
店主がふいにティッシュを差し出す。「涙を拭いてから食べたほうが、甘く感じるよ」
私はぽかんとそれを受け取り、堪えていた雫がまた落ちて、紙をじわじわと濡らしていく。
――これが、恋なんだ。甘くて、苦い。
ホテルに戻り、すぐに単身用の部屋をひとつ押さえた。スーツケースを引いて出ようとした、そのとき。玲央からメッセージが届く。
開いてみれば、相変わらずの調子だった。【日和。今夜は騒ぐべきじゃなかっただろ】
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