これより先、それぞれの幸せを第1話
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部署のみんなで、親睦を兼ねたハイキングに出かけることになった。
グループ分けのとき、私――白川琴葉(しらから ことは)は2年間ひそかに付き合っている佐伯湊(さえき みなと)を見る。
当然、彼は私を選ぶと思っていた。
けれど彼が目を向けたのは、帰国したばかりの幼なじみ――前田夏海(まえだ なつみ)だった。
「体力ないだろ。俺と同じグループに入れ。俺がついてるから」
夏海はごく自然な仕草で、彼の腕に手を絡める。
それを見た同僚たちは、たちまち囃し立てる。「やっぱり幼なじみって特別ですね。社長、まだ独身ですよね?二人、けっこうお似合いじゃないですか」
湊は、夏海の腕を振りほどこうともしない。ただ、淡々と答える。「うん。俺、彼女いないけど」
その場で、私は凍りつく。
昨夜まで、彼は私を抱きしめていた。「もうすぐ、みんなにちゃんと話すから」そう言っていたのに。
なのにグループ分けが終わるまで、彼は一度も私を見ない。
私はどのグループにも入らず、自由参加の組に回された。そして山を登っている途中、半ばまで来たところで足をひねる。
私は彼にメッセージを送る。【湊、もう歩けない】
既読はつく。けれど、返事はない。
40分待って、ようやく届いたのは、グループチャットに投稿された山頂での集合写真だった。
湊は夏海の肩を抱き、満面の笑みを浮かべている。
その下には、二人を面白がって盛り上がるコメントが次々と並んでいる。
そのうちの一人が私をメンションする。
【白川さん、置いていかれた?みんなの足引っ張らないでよ】
【前田さんはもう山頂に着いてるのに、まだなの?】
【歩けないなら、最初から来なきゃよかったのに】
その日、私はひとりで山を下りた。
山の麓では、湊が夏海のためにタクシーを呼んでいる。
そのとき、私が足を引きずりながら歩いてくるのが目に入って、彼はほんの少し眉をひそめただけだった。
「俺に個別で連絡するなって言っただろ。会社の人に見られたら、変な誤解をされる」
その瞬間、私はようやく理解する。「秘密の恋」なんて、結局は彼がいつでもなかったことにできる関係だったのだ。
湊。あなたが望んだとおり、あなたにはもう彼女はいない。
* * *
山の麓の救護室で傷の手当てを終えた頃には、湊はもういなくなっていた。
今回の親睦会を担当している総務の人が、薬の入った袋を私に差し出す。
「社長から預かってます。手当てが終わったら、タクシーで一人で会社に戻るように、とのことです」
私は小さな声で尋ねる。
「社長は……?」
「前田さんが低血糖を起こしたので、社長が病院まで付き添っています」
腫れて熱を持った足首を見下ろす。胸の奥に残っていた最後の期待が、静かに消えていく。
会社に戻り、机の端に手をついてようやく腰を下ろす。その直後、夏海が社内グループにメッセージを投稿する。
【社長が検査に付き添ってくれたおかげで、もう大丈夫よ。今夜の食事会、みなさん忘れずに参加してくださいね】
すぐに同僚たちが盛り上がる。
【社長がわざわざ病院まで付き添うなんて、羨ましいな】
【山登りで置いていかれる人もいれば、具合が悪くても山頂まで頑張る人もいる。やっぱり違うよね】
私はグループチャットを閉じる。すると、今度はアシスタントが大量の書類を抱えてやってくる。
「白川さん、社長から、今夜中に青嵐(せいらん)プロジェクトの初稿を修正しておくように言われている」
「今夜って、食事会じゃないの?」
「午後、仕事を中断した分を取り戻してもらうそうです」
その言葉が終わるのとほぼ同時に、廊下の突き当たりにある役員専用エレベーターが音を立てて開く。
湊が夏海を支えながら出てくる。
夏海が羽織っているのは、湊のジャケット。そして手にしているのは、深い藍色の陶器のカップ。
それは、私たちが付き合い始めて初めてのデートで、一緒に焼いたカップだった。
カップの底には、少しいびつな葉っぱの模様が刻まれている。湊が自分の手で刻んだものだ。
昨夜、湊に家まで送ってもらったとき、私は車を降りる際に、うっかりそれを助手席のドリンクホルダーに置き忘れてしまった。
夏海が私の視線に気づく。そして、笑顔でカップを掲げた。
「湊ったら、病院から帰ったばかりで胃がつらいかもしれないからって、わざわざお湯を入れてくれたの。このカップ、けっこう可愛いね」
私は机に手をつき、立ち上がる。
「それ、私のよ」
周囲が、一瞬で静まり返る。
湊が私を見る。その目には、わずかな警告の色が浮かんでいる。
「陶芸店でもらった、ただのカップだ。大したものじゃない」
夏海は彼の言葉に合わせるように、にこりと笑う。
「なんだ、もらい物だったんだ。白川さんが気に入ってるなら、どうぞ」
そう言って、カップを私の机の上に置く。
そして、指が離れ、カップが机の角にぶつかって、乾いた音を立てる。
亀裂がカップの縁から底まで、一気に走った。
「ごめんなさい……」夏海は手を押さえ、目を潤ませる。「わざとじゃないの」
湊は真っ先に彼女の手を取って、指先を確認する。
怪我がないと分かってから、ようやく淡々と言った。
「割れたなら捨てればいい。カップ一個だろ」
清掃員がやって来て、カップを破片ごとゴミ箱へ掃き入れる。
私は、そこに残った葉の模様が刻まれた破片を見つめる。ズキン、ズキンと足首が痛む。
同僚が急かすように声をかけてくる。
「白川さん、初稿はいつ終わりそう?個人的なことでチーム全体の仕事を遅らせないでよ」
私は席に戻る。
「12時までに」
みんなに囲まれるようにして、夏海がエレベーターへ向かっていく。けれど、湊だけはその場を動かない。
私の腫れ上がった足首に一度目をやると、書類の間に一枚のカードキーを滑り込ませる。
私たちがよく利用していたホテルのカードキーだ。
湊が低い声で言う。
「終わったら、俺のところに来い。意地を張るな」
私はカードキーを彼の前へ押し返す。
「社長には彼女がいないんだよね。今夜、二人きりで会うのはおかしいと思うけど」
湊が私の手首をつかむ。
「山でのことなら説明できる。夏海は体調が悪かった。あいつを置いていくわけにはいかなかった」
「私も、歩けなかった」
「でも、お前は下りてきただろ」
あまりにも当然のように言われる。まるで私が、一人で痛みに耐えながら山を下りてきたのは、最初から彼の助けなんて必要としていなかったからだと言わんばかりに。
そのとき、出入口のほうから夏海の声が聞こえる。
「湊、みんな待ってるよ。早く食事会に行こう」
湊は私の手首から手を離す。そして私の書類を取り上げ、修正が必要なページを開いて、机の上に置く。
「まずは仕事をしろ。話は夜にしよう」
そう言って、湊は夏海のもとへ向かう。そして、エレベーター前で待っていたみんなと合流し、そのまま一緒に去っていく。
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